城の呼名は、国分城あるいは(浜之市の富隈城に対して)、国分新城という。
我々は舞鶴城と呼んで、慣れ親しんできた。
周囲の石垣と堀が歴史の重みを感じさせる、自慢の小学校だ。
小学校としては、150年近い歴史がある。
私の入学当時、まだ木造校舎も残っており、
おぼろげながら脳裏に浮ぶ昭和の風景は、郷愁を誘う。
西側の校門を入ると、すぐに大きな講堂があった。
映画のワンシーンにあるレトロな外観の和洋建築。
洋風の玄関ポーチが印象的な正面入口。
内部は、高い天井に、板張りの床が黒光りを帯び、
広く落ち着いた空間だった。
中に入ると一瞬、ヒンヤリとするものの、
大きな縦長の格子の窓から十分な光が差し込み、
床を照らす光景は幸せな気分になった。
壁には黒と赤の暗幕が設置され、
利用の目的に応じて張られる度に
その巨大さに圧倒されたものだった。
壇上にはグランドピアノが置いてあった。
非情に立派な講堂であったと思う。
入学式、卒業式、節目ごとに行われる学校行事以外にも、
たくさんの思い出がある。
小学校に上がる前、予防注射があった。
私は注射が大の苦手だった。
アルコール消毒の匂いは刺激的すぎた。
お医者さんと母が押さえつけるなか、
懇親の力を込めてすり抜け、泣きながら広い講堂を逃げ回った。
今でもよく覚えている。
選挙の時には、投票会場にもなった。
親について行き、選挙のことは未だわからなくても、
何か重要なことが行われているのだなと感じ取れた。
堂々とした風格の講堂と、投票時の厳粛な雰囲気が妙にマッチしていた。
当時、講堂は地域の公共施設として、様々な役割を果たしていた。
「講堂」という呼び方も、時代を象徴しているかのようだ。
現代、体育館はあっても、講堂のある学校は少ないのでは。
全国には、明治・大正・昭和初期の建築物が、
壊されることなく保存され、現役で活躍している例がたくさんある。
私が子供の頃までは、国分の町にも
歴史的価値のある貴重な建物が随分残っていたように思う。
あれが、今残っていれば、きっといい味を出していただろうに。。。
つい、懐古趣味が出てしまう。
確かに、修復維持には費用がかかる。しかし、
取り壊し以外の選択も検討できる余裕が欲しいものだ。
嘉例川駅の駅舎は、今も、立派に活躍している。
高度成長期、大量生産、経済発展と、
その恩恵を享受した子供時代であった。
新しい物や変化を好み、身近なものに価値を見出せないこともあった。
・・・時が過ぎ、時代は変わった。
今一度、考えてみたい。本当に大切なものは何なのかと。