2012/12/01

台明寺と天智天皇

 国分小学校を城山の麓に沿って北へ進むと、宇都(うと)、清水(きよみず)と続き、運動公園、国分中学校が見えてくる。私はこの道を3年間通った。更に、北へ進むと、郡田(こおりだ)地区。郡田川を東に遡っていくと、次第に道幅は狭まり、台明寺(だいみょうじ)地区へとたどり着く。山之路(やまんじ)と呼ばれた集落は隠れ里といった形容がぴったりの雰囲気。現在は上流に公園ができ、夏は涼を求め訪れる人に利用されている。

台明寺の名は、かなり古い文献にも見られ、正式には「竹林山集衆院台明寺、国分弥勒院の末寺」で、時代毎に時の権力者の庇護を受け、明治廃仏毀釈まで存在していたのは確実であろう。

私が興味をそそられるのは、その伝承である。
「当寺の由緒按ずるに、天智天皇御勅願として創建、国家鎮護の道場とす」とある。

天智天皇が未だ皇太子の時代、この地方を訪れ、よい笛になる竹はないかと訪ねられた。そこでこの地に生育する竹を差出したところ、その音色にことのほか喜ばれ、それより後、朝廷に献上されるようになったと。

天智天皇といえば、645年、乙巳の変で、中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともにクーデーターを起こし、蘇我入鹿の首をはねた、中大兄皇子のことである。その後、鎌足とともに行った政治改革が大化の改新(歴史の勉強で、無事故の日なし大化の改新とか、蘇我のむしごろしなどと暗記したものだった)。母親の斉明天皇を補佐し、長らく皇太子のまま政治を続けた。

当時、東アジアは動乱の時代。中国大陸は隋から唐へ、その影響を受け、朝鮮半島では百済と新羅が争っていた。ヤマト朝廷は百済を救援すべく兵を送ることにした。その指揮にあたって斉明天皇一行は、奈良の飛鳥から筑紫の朝倉宮に一時滞在している。この東アジアの動乱に備え、防衛用に築いた水城の遺跡が残されており、史実を裏付けている。天智天皇(中大兄皇子)の九州行幸にまつわる、薩摩半島や大隈半島に残る伝承はこの時期のものであろうか。

結局、白村紅の戦いで、唐・新羅連合軍に惨敗を喫し、その後、中大兄皇子は飛鳥から近江に遷都し、そこで即位する。数年後、天智天皇が亡くなると、後継者の座をめぐり、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が争い、壬申の乱が起きる。大海人皇子が勝利、天武天皇として即位する。学校で教わる日本史はざっとこのような流れである。

だが、古代史マニアにとってはそれでは済まない。斉明(皇極)天皇、天智天皇、天武天皇にまつわる謎をあげれば、枚挙に暇がなく、興味が尽きないのである。特に天智天皇に関しては、南九州の神社に伝わる伝説が多い。当時の政治の中心から遠く離れたわが故郷のこの地に、数多くの伝説が存在するのは何故か。現在の我々が考える以上に、古の人々のネットワークは、発達していたのではないか。更に、中央から見ても、無視することのできない重要な土地であったのではないか・・・などと、妄想するのも楽しいものである。

天智天皇と台明寺の話がいつの頃から語り継がれていたのか、詳しい検証の余地はあるとしても、我が郷土に残る伝承は未知の可能性を持っているのではないだろうか。夢とロマンを求める古代史好きには、魅力的な土地である。


森閑とした山間のこの地、山之路は、長い歴史があるにもかかわらず、何も語らず、ひっそりと時が流れるのを見守ってきたかのようである。清らかな渓流がつくり出す自然環境と、台明寺の存在は貴重な郷土の財産である。しかし、かつての古刹、台明寺の面影はみあたらない。この伝承も消えてしまわないように、伝えていく価値があるのではないだろうか。



余談ではあるが、NHK大河ドラマの『平清盛』がクライマックスを迎えている。平安時代末期に至っても、台明寺の竹で作られた笛は青葉の笛と呼ばれ、宮廷で珍重され、平家の公達にも伝わったようである。ドラマのシーンで、平経盛(駿河太郎(鶴瓶さんの息子)さん)が、笛を吹くシーンがよく見られるが、あの笛が青葉の笛らしい。鳥羽上皇(三上博史さん)から、清盛らの父平忠盛(中井貴一さん)に賜ったもので、後に孫にあたる敦盛に譲られる。
若く美しい笛の名手でもあった平家の若武者、平敦盛の悲しい最期を、平家物語は語り継ぐ。源平合戦、一ノ谷の戦いのシーンを楽しみにしているのだが、取り上げられるかどうか。。。