2013/02/15

大隅国分寺跡 石の記憶



奈良時代、大隅国分寺が置かれたこの平野に思いをはせてみる。
タイムトラベラーになったつもりで。


聖武天皇は、鎮護国家の思想のもと、諸国に国分寺と国分尼寺を造らせた。
天平13年(741年)の国分寺建立の詔である。
自然災害、疫病、争いで疲弊しきった世の中を、仏の力で変えようとしたのだ。

数年後、奈良の都、平城京では、国力を結集させ、巨大な盧舎那仏が完成。
大仏開眼の儀式が、華々しく行われようとしていた。
はるばる天竺から高僧が招かれ、国際色豊かな祭典であったそうだ。

一方、大隅国分寺は、全国にだいぶ遅れて完成したという。
隼人が朝廷に抵抗し続け、大きな犠牲を払ってから数十年が経っていた。
当時、建設に携わった人々や、その様子は、どのようであったのだろう。
また、完成した寺の様子は、どのようであったのだろう。
仏教文化はこの地にどのような影響を与えたのだろうか。
縄文の頃より祀り奉る土着神のように、すんなりと受け入れられたのだろうか。
夕焼けに鐘の音が響きわたる国分平野。
穏やかな情景を想い描いてみる。


夜中、試験勉強に身が入らずちょいと奈良時代へタイムスリップ・・・
数学よりずっと集中でき、脳みそは活性化され、ワクワクしたものだ。
修行に励む僧侶たち、野良仕事や漁労に精を出す里人たち・・・
千三百年ちかい時の流れを遡れば、確実にこの辺りに大隅国分寺は存在していた。
そう考えると、SF小説の主人公にでもなった気分だった。

とは言うものの、大隅国分寺の全体像(伽藍の配置など)は、未だに不明である。
周辺が住宅地になっているため、調査が進んでいないのが現状なのだそうだ。
(この点に関しては、少々複雑な思いが・・・)
現存するものは、平安末期に造られた六重の石塔(元々は七重であったらしい)と、
仁王像が2体のみ。

そんな貴重な文化財とはつゆ知らず、もの心ついた頃からここで遊んでいた。
ままごとにしても、鬼ごっこにしても、常に石に触れていた記憶がある。
なぜか頭のない石像が不思議でしょうがなかった。
「なんで、頭がないんだろう???」
そんな体験のおかげで、妄想力が鍛えられたのかもしれない。。。


全国に残る国分寺跡は長い歴史の中で、それぞれの末路をたどったようであるが、
大隅国分寺の運命は、どのようであったのか。

『三国名勝図絵』に、「・・・数百年星霜を経て、いづれの時にや荒廃に及べり・・・」と、次第に衰退していった記録が残されている。それでも、「・・・今や寺は主僧一口の草庵なりといえども、廻国修行納経所となりて、参詣の徒絶えず・・・」と伝えている。

また、「寺辺一町方許地中より、古瓦を掘出すことあり、其瓦厚きこと三寸に余り、或は布目、或は網形などあり」と、附近から奈良時代の瓦が出土したことも補足し、「当寺草創天平十一年己卯より今年天保十二年の丑に至り、一千百三年、実に千古巨刹の遺跡疑いを容るべきなし」と。
編纂者が歴史の重みを実感している様子がうかがえる。
江戸後期の薩摩藩士に共感!


明治の廃仏毀釈で廃寺となり、公民館が置かれた。
また、ここに墓地があったとも聞かされている。
現在は全ての建物が取り払われ、広い空間に
石塔と2体の仁王像がもの言わずたたずんでいる。
まるで次のステージを待っているかのようだ。


幼い頃、毎日のように遊んだ身近な場所が、貴重な文化財であり、
少なからず、影響を受け、育ったことに感謝したいと思う。