奈良時代、大隅国分寺が置かれたこの平野に思いをはせてみる。
タイムトラベラーになったつもりで。
聖武天皇は、鎮護国家の思想のもと、諸国に国分寺と国分尼寺を造らせた。
天平13年(741年)の国分寺建立の詔である。
自然災害、疫病、争いで疲弊しきった世の中を、仏の力で変えようとしたのだ。
数年後、奈良の都、平城京では、国力を結集させ、巨大な盧舎那仏が完成。
大仏開眼の儀式が、華々しく行われようとしていた。
はるばる天竺から高僧が招かれ、国際色豊かな祭典であったそうだ。
一方、大隅国分寺は、全国にだいぶ遅れて完成したという。
隼人が朝廷に抵抗し続け、大きな犠牲を払ってから数十年が経っていた。
当時、建設に携わった人々や、その様子は、どのようであったのだろう。
また、完成した寺の様子は、どのようであったのだろう。
仏教文化はこの地にどのような影響を与えたのだろうか。
縄文の頃より祀り奉る土着神のように、すんなりと受け入れられたのだろうか。
縄文の頃より祀り奉る土着神のように、すんなりと受け入れられたのだろうか。
夕焼けに鐘の音が響きわたる国分平野。
穏やかな情景を想い描いてみる。
穏やかな情景を想い描いてみる。
夜中、試験勉強に身が入らず、ちょいと奈良時代へタイムスリップ・・・
数学よりずっと集中でき、脳みそは活性化され、ワクワクしたものだ。
修行に励む僧侶たち、野良仕事や漁労に精を出す里人たち・・・
数学よりずっと集中でき、脳みそは活性化され、ワクワクしたものだ。
修行に励む僧侶たち、野良仕事や漁労に精を出す里人たち・・・
千三百年ちかい時の流れを遡れば、確実にこの辺りに大隅国分寺は存在していた。
そう考えると、SF小説の主人公にでもなった気分だった。
とは言うものの、大隅国分寺の全体像(伽藍の配置など)は、未だに不明である。
周辺が住宅地になっているため、調査が進んでいないのが現状なのだそうだ。
(この点に関しては、少々複雑な思いが・・・)
現存するものは、平安末期に造られた六重の石塔(元々は七重であったらしい)と、
仁王像が2体のみ。
仁王像が2体のみ。
そんな貴重な文化財とはつゆ知らず、もの心ついた頃からここで遊んでいた。
ままごとにしても、鬼ごっこにしても、常に石に触れていた記憶がある。
なぜか頭のない石像が不思議でしょうがなかった。
「なんで、頭がないんだろう???」
そんな体験のおかげで、妄想力が鍛えられたのかもしれない。。。
そんな体験のおかげで、妄想力が鍛えられたのかもしれない。。。
全国に残る国分寺跡は長い歴史の中で、それぞれの末路をたどったようであるが、
大隅国分寺の運命は、どのようであったのか。
『三国名勝図絵』に、「・・・数百年星霜を経て、いづれの時にや荒廃に及べり・・・」と、次第に衰退していった記録が残されている。それでも、「・・・今や寺は主僧一口の草庵なりといえども、廻国修行納経所となりて、参詣の徒絶えず・・・」と伝えている。
また、「寺辺一町方許地中より、古瓦を掘出すことあり、其瓦厚きこと三寸に余り、或は布目、或は網形などあり」と、附近から奈良時代の瓦が出土したことも補足し、「当寺草創天平十一年己卯より今年天保十二年の丑に至り、一千百三年、実に千古巨刹の遺跡疑いを容るべきなし」と。
編纂者が歴史の重みを実感している様子がうかがえる。
江戸後期の薩摩藩士に共感!
明治の廃仏毀釈で廃寺となり、公民館が置かれた。
また、ここに墓地があったとも聞かされている。
現在は全ての建物が取り払われ、広い空間に
石塔と2体の仁王像がもの言わずたたずんでいる。
まるで次のステージを待っているかのようだ。
石塔と2体の仁王像がもの言わずたたずんでいる。
まるで次のステージを待っているかのようだ。
幼い頃、毎日のように遊んだ身近な場所が、貴重な文化財であり、
少なからず、影響を受け、育ったことに感謝したいと思う。