島津家16代当主、義久(よしひさ)が、大隅國国分郷の地に城を築いたのが、
西暦1604年、今から410年前になる。
現在の国分の町の基礎を造ったといっても過言ではない人物、島津義久。
あるいは、島津氏700年の歴史を存続させる礎を築いた人物、島津義久。
戦国動乱の時代を駆け抜けた武将たちの中で、
この島津義久の名を、私は真っ先に挙げたいと思う。
理由は、もちろん、郷土に深く関わる人物ということもさることながら、
語り継がれている人物像に、更に魅力を感じるからである。
しかしながら、残念なことに、地元でも、存在感は今一つ薄いのが現実。
そこで、家臣思いであった島津義久(龍伯様)が偲ばれる逸話を一つ。
義久に仕えて、数々の武功をたてた山田利安が、
慶長14年(1609年)、61歳で、国分麓の地にて没した。
その棺が、向花の山崎墓地に葬られる際、
義久は、棺を城門まで召し寄せ、手厚く焼香し、
「利安、さらば。自分もやがておいつかむ。」と言って、
歌を手向けたとある。 (薩藩旧伝集)
現在残る、国分小学校から国分高校まで東西に延びる石垣のあたりで、
400年ほど前に、このような心温まる光景があったのかと想像するだけで、
わが故郷が、誇らしく思えてくるのである。
国分舞鶴城の石垣は、野面(のづら)積という石積みの技法が用いられているそうだ。
平成16年実施の発掘調査では、築城当時、石垣の高さは、少なくとも5~6メートルはあったことがわかっている。
島津義久が、富隈城からこの地に移城することを決めた最大の要因は、
舞鶴城の背後に、詰めの城、城山が控えていたことである。
地形を利用した、攻めにくく守りやすい城は、国府新城と呼ばれていた。
城山は隼人城、遡ること古代には、曾於石城(そおのいわき)と呼ばれ、
隼人が朝廷の軍勢と死闘を繰り広げた場所であったと伝えられている。
きりしま想望