2012/11/24

舞鶴城跡 小学校の講堂

わが母校国分小学校は、今から400年ほど前に島津義久が築いた城跡にある。
城の呼名は、国分城あるいは(浜之市の富隈城に対して)、国分新城という。
我々は舞鶴城と呼んで、慣れ親しんできた。

周囲の石垣と堀が歴史の重みを感じさせる、自慢の小学校だ。
小学校としては、150年近い歴史がある。

私の入学当時、まだ木造校舎も残っており、
おぼろげながら脳裏に浮ぶ昭和の風景は、郷愁を誘う。

西側の校門を入ると、すぐに大きな講堂があった。

映画のワンシーンにあるレトロな外観の和洋建築。
洋風の玄関ポーチが印象的な正面入口。

内部は、高い天井に、板張りの床が黒光りを帯び、
広く落ち着いた空間だった。

中に入ると一瞬、ヒンヤリとするものの、

大きな縦長の格子の窓から十分な光が差し込み、
床を照らす光景は幸せな気分になった。
壁には黒と赤の暗幕が設置され、

利用の目的に応じて張られる度に
その巨大さに圧倒されたものだった。
壇上にはグランドピアノが置いてあった。
非情に立派な講堂であったと思う。

入学式、卒業式、節目ごとに行われる学校行事以外にも、
たくさんの思い出がある。

小学校に上がる前、予防注射があった。
私は注射が大の苦手だった。
アルコール消毒の匂いは刺激的すぎた。
お医者さんと母が押さえつけるなか、
懇親の力を込めてすり抜け、泣きながら広い講堂を逃げ回った。
今でもよく覚えている。

選挙の時には、投票会場にもなった。
親について行き、選挙のことは未だわからなくても、
何か重要なことが行われているのだなと感じ取れた。
堂々とした風格の講堂と、投票時の厳粛な雰囲気が妙にマッチしていた。

当時、講堂は地域の公共施設として、様々な役割を果たしていた。
「講堂」という呼び方も、時代を象徴しているかのようだ。
現代、体育館はあっても、講堂のある学校は少ないのでは。



全国には、明治・大正・昭和初期の建築物が、
壊されることなく保存され、現役で活躍している例がたくさんある。
私が子供の頃までは、国分の町にも
歴史的価値のある貴重な建物が随分残っていたように思う。
あれが、今残っていれば、きっといい味を出していただろうに。。。
つい、懐古趣味が出てしまう。

確かに、修復維持には費用がかかる。しかし、
取り壊し以外の選択も検討できる余裕が欲しいものだ。
嘉例川駅の駅舎は、今も、立派に活躍している。


高度成長期、大量生産、経済発展と、
その恩恵を享受した子供時代であった。
新しい物や変化を好み、身近なものに価値を見出せないこともあった。
・・・時が過ぎ、時代は変わった。
今一度、考えてみたい。本当に大切なものは何なのかと。



2012/09/07

大隅国小河院 言葉の化石

言葉を覚え、会話ができるようになると、
迷子になった時のことを考え、親は子に、
住所が言えるようにと暗記させる。
私の子供の頃は、そうだった。

「かごしまけん こくぶし かみこがわ ****」
母親の前で直立し、暗唱させられる。
そんな記憶が、残っている。

この儀式をパスすると、少し、一人前になれたような気がした。
そして、次は、下の者の番。
弟がこの時期を迎え、何度も練習していたのを思い出す。
途中でつっかえてしまうのが、可愛くて、微笑ましかった。

ところで、この住所、暗記したものの、
はて、「なんで、かみおがわ…って言うのだろう?
上小川小学校は、家からは随分遠いのに。」
不思議に思っていた。

『角川日本地名大辞典』によると、
大隈国小河院に由来するらしく、
中世、鎌倉時代から見られるとある。
税所氏や正八幡宮の管理下にあったらしい。
日本史のキーワードの一つ、“荘園”制度の時代まで遡る。

近世、江戸~明治22年は、大隅国曽於郡国分郷上小川。
近代になると、国分村⇒国分町⇒国分市の大字として残った。
国分市上小川**と呼ばれる住所は、現在よりもっと広範囲を占めていた。

昭和40年代後半か50年代前半に、国分市の住所の表示変更があった。
実家の区域は、国分市中央*丁目… と改められた。
当時は、「なんと、都会的!」と思ったものだ。

そして21世紀、俗に言う「平成の大合併」で、霧島市国分中央*丁目… となった。
これから先、私が生きているうちに、また住所が変わることがあるのだろうか。。。

町の発展とともに行政区域の呼名が変わっていくのは、致し方ないこと。
しかし、慣れ親しんだ呼名が失われてしまうことがあってはならない。
まさか、「国分」の地名は無くなりはしないだろうが。。。 
その土地に伝わる「地名は生きた言葉の化石」という人もあるくらい
貴重な財産であるのだから。

記憶の片隅からも消え去ろうとしていた思い出がふと甦り、懐かしくも、
愛着があるものを失ったような気持ちになった。

幼い頃、苦労して覚えた住所は消えた。
でも、思い出は消えない。

追記
迷子のインコが警察に保護されたが、自ら(?)住所を伝え無事帰宅した。
そんなニュースがあった。

2012/08/30

早春の国分平野

故郷といって真っ先に思い浮かべるのは・・・。
やはり、城山からの眺望だろうか。

私が小学生のころは、城山へ登る道はまだ舗装などされておらず、
金剛寺から徐々に続く坂道は、子供の足で約1時間はかかった。

3年生の時の担任、H先生は若い女の先生で、
明るくて、歌の好きな先生だった。
そして、私たちをよく教室から連れ出してくれた。
授業で、何度も城山に登った。

春は、ポカポカ陽気の中、
温んだ水溜りに、蛙の卵や、お玉じゃくしを見つけた。
自然観察あり、歌ありの懐かしい課外授業。

頂上に着くと、ふぅーと一息つく。
しばらくして、麓に広がる景色に、わぁーと声をあげる。
南へ広がる国分平野と錦江湾。そして桜島。
その雄大なパノラマに子供ながらに感動したものだ。

特に春の景色は心躍るものがあった。
美しく並んだ田畑は、れんげ草の赤紫、菜の花の黄、若い麦の緑に染まり、
春の三色が織りなす格子模様のように映った。
(緑色は当時の国分の代名詞タバコの葉の色だったかもしれない。)
その先には早春の海がキラキラ輝いていた。
まるで、のどかな素朴画そのもので、
豊かな自然と、人々の営みが、一枚の絵に描かれたようだった。

あのころの城山は整備されていなくても、登って来た者を充分満足させてくれた。
現在は、車で一気に登ってしまう。桜の季節ともなれば大渋滞。

便利になったけど、少し淋しい気もする。
郷愁って、そんなものなのだろうか。。。

ここからの眺めは、悠久の歴史を感じさせる。
南九州を舞台に繰り広げられた私たち祖先の変遷。

大切にしたい故郷の景観の一つ。



2010/09/19

クスノキの思い出

私が子供の頃、小学校の広い校庭には大きなクスノキが何本も立っていた。
実家は小学校のすぐそばにあったから、
校庭はじぶんちの庭のようなもので、
小学校に上がる前から、この広い校庭の隅々でよく遊んだものだった。

最も記憶に残っているのは、中でも太く大きい一本の木のこと。
私は、その木に “ラクダちゃん” と名前をつけて呼んでいた。
石垣の横に立っていたので、子どもの体でも石づたいに登ることができた。
太い幹が二股に分かれていて、その上で休むのにちょうどいい具合だった。
跨ると、まるでラクダの背中にでも乗っているような気分だった。
(未だに本物の駱駝に乗ったことは無いが、子どもながらにそう想ったものだ。)

「ラクダちゃん、来たよ。」と話しかけて、太い幹に抱きつくのが挨拶だった。
幹の凹みに小さな宝物を隠したり、ときには友だちとおしゃべりに夢中になったり、
ひとり、空想にふけってみたり。木の上は格好の遊び場だった。

木は独特の香りを放っていたのを、今でもはっきり覚えている。
樹齢何年も経っているだろうその木に触れていると、その芳香の中でなぜか安心できた。
今思えば、木が生きていると実感した初めての体験であったかもしれない。


鹿児島の古い神社には、クスノキが必ずと言っていいほど生育している。
旺盛な成長力に加え、寿命も長いときているので巨木が多い。
昔から御神木として祀られ、現在では天然記念物に指定され、
守られているものも少なくない。
その太い幹からは大きい材木が得られ、耐湿性、耐久性に富んでいるため、
古くから船の材料とされてきたそうだ。

日当山の蛭子(ヒルコ)神社(奈気木の杜ともいう)にも大きなクスノキがある。
境内の一角には朽ちた根株が残されている。ここに伝わる話は少し悲しい。
イザナギとイザナミの間に生まれたヒルコは成長しても足が立たなかったため、
高天原から舟に乗せて流された。その舟が流れ着いた地であるという、古い古い伝説。
遠足で訪れ、先生がその伝承を語るのを聞きながら、妙に人間臭い神話の世界に、
子供心にもショックを受けたことを覚えている。

日本神話の世界に、“磐樟船(いわくすぶね)という船が登場する。「クスノキで造った堅牢な船」という意味合いらしい。「日本書紀」では、この磐樟船にヒルコを乗せて流したと。一方、「古事記」では、その舟は、葦舟であったと。

はるか昔、蛭子神社の周辺は、今とは少し違った景色であっただろう。海はもっと近くまで迫っていたというから、葦などの水辺の植物が生茂る風景が浮かぶ。

葦の小舟、速く堅牢な磐樟船。この地を舞台に繰り広げられた歴史の変遷を感じる。
海と切り離して語ることのできない、私たちの祖先との深い関わりを想像して、興味が尽きない。

薩摩藩の時代になると、樟の木は藩の財政を助けた。この木から抽出され製造された樟脳(しょうのう)は藩の貴重な財源の一つとなった。

子供の頃、身近にあったクスノキ。

この年になって改めて、郷土に根付く貴重な資源と認識する。伝えていきたいことの一つかな。と思う今日この頃。

懐かしいクスノキの友達“ラクダちゃん”は、もう随分前に台風で倒れてしまい、
今はいない。。。

2010/09/18

故郷

ふるさとの風景。

時の彼方の記憶。

失わないうちに、残しておこう。。。