2013/08/30

うど婆ちゃんとちんか婆ちゃん

母がよく思い出話をする。
「おはんに、うど婆ちゃんが10円玉を握らせっせぇ、
黒砂糖をこけ行かせっおいやった」 と。
当の本人は、買いに行かされたという記憶がほとんどない。
ただ、うど婆ちゃんが黒砂糖を好きだったのは、覚えている。
冬の日、黒い着物をきて、縁側で日向ぼっこをしている丸い姿。

本家にうど婆ちゃんと、ちんか婆ちゃんがいた。

小さいころは、意味もわからず、そう呼んでいた。
いとこの姉ちゃんや兄ちゃんが、そう呼んでいたので、
同じように呼んでいただけだった。

うど婆ちゃんは、私が幼稚園に上がる前に亡くなった。
それからは、ちんか婆ちゃんしかいなかったから、
ちんか婆ちゃんって、「何でそう言うのかなぁ。」と思いつつも追求はしなかった。
その意味をちゃんと理解したのは、ずいぶん大きくなってからだった。

大きい婆ちゃんと、小さい婆ちゃん。
決して、体の大きさのことではない。

二人は嫁と姑の関係。
本家のおばちゃんや、うちの母はそのまた嫁。

うど婆ちゃんも、ちんか婆ちゃんも、
明治生まれの薩摩の女たち。。。

ちんか婆ちゃんは、高校生の時に亡くなった。
直接、話をすることはめったになかった。
昔のことを教えてもらうこともなかった。

「むかっのしは、ひでかったとぉ。」
昔の人は大変だったと、よく尊敬の念をこめて言われる。

薩摩の女たちの生活は、
今とはずいぶん違っていたのだろうなぁ。。。

2013/08/24

虹と国分平野

虹を見たとき、人はなぜか心が躍る。
なぜだろう。。。

虹は人工的につくり出すこともできる。
科学的な知識があれば、丸い虹だってつくることができるそうだ。
もともと、虹は円形なのだそうだ。

空中に残った水滴に、太陽の光が反射、屈折しておきる自然現象。
それが虹。でも、心が躍る。

わがふるさと、国分平野には、虹がよく出る。
雨上がり、虹を見るチャンスが多いのではないだろうか。

さえぎるものもなく、見えやすいという条件だけではなく、
何か、地形が関係しているのではないだろうか。
そう思うことがある。

国分小学校の校歌に、虹がでてくるのだ。

♪ 霧島北に 虹深く 南は燃える 桜島
仰いで励む 学舎に 
希望の 花を かざすのは
われらぞ 国分小学校

昔から、虹がよく出現していたのではないだろうか。
そう思える。(郷土史に記述はないものか。。。)

霧島連山を背景に、南に桜島を望む、国分平野。
昔に比べれば、田んぼが少なくなったが、
それでも、天降川の辺りに立てば、
360度見わたすことができる。
なんとすばらしい土地であることか。。。

虹の町。希望の町。わがふるさと。
ソシシノムナクニと呼ばれた土地は
稔り豊かな田園地帯へと変わった。
はるか昔から、我々の祖先が営み続けた理想郷。

この景観が壊されることがあってはならないと、切に願う。
どうぞ高層ビルが乱立するような、残念なことにならないように。。。















( 中学校、高校の校歌は、全く思い出せないのに、
不思議と、この校歌は、歌えてしまう。 )

2013/08/21

隼人(ハヤト)と呼ばれた人々

古代、南九州に、「ハヤト」と呼ばれた人々がいた。
「隼人」の文字は、文献に記述されている。
「熊襲(曾)」の記述と入れ替わるように、「隼人」が登場する。

大和朝廷が使った呼名ということになるが、熊襲は東北の蝦夷と同様、
まつろわぬ(従わない)者どもといった意味合いを含み、
まるで異民のようなあつかいを受けている。

熊襲と隼人との関係も
「ハヤト」と呼ばれる所以も、明確にはわかっていない。

彼らの行動が隼(はやぶさ)のように敏捷かつ、勇猛であったとか、
彼らの持つ呪術性が重要視されていたとか、
また、日本神話に登場する神の末裔であったりとか、
隼人(ハヤト)と呼ばれた人々は、朝廷から見て
大きな存在であったといっても過言ではないだろう。

そんな彼らが、活躍した場所が、我々のふるさと、
南九州の地であった。
深い森と川、豊穣の海、聖なる山々。
太古のころより、この地を営みの場としていた。
連綿と繰り返されてきた歴史の変遷を受けながらも、
現代に生きる我々の中に、そのDNAを繋いできただろう。

隼人(ハヤト)と呼ばれた人々に、
我々のアイデンティティを求めてみたくなる。
学問ではなく、浪漫チックに。。。

そして、貴方たちはどこから来たのかと問うてみたくなる。


2013/07/14

おぎおんさあ 国分の夏祭り

祇園祭といえば、京都の夏を盛り上げる祭りとして有名であるが、私の町にも、「おぎおんさあ」と呼ばれる夏祭りがあった(私たちはぎおんまつりと呼んでいた)。国分の八坂神社がある八坂通りを中心に、中央通り、旭通り、新市街通りに夜店がならび、山車が通りをねり歩く。夕暮れ後しだいに暗くなるにつれ、この日ばかりは、街が提灯の灯りと祭り客でにぎやかになっていく。その様子にわくわくしたものだった。

山車に乗る子は、毎年、中学1年生になる年齢の女の子から選ばれるのだそうだが、きれいにお化粧をしてもらい、まとめ髪にきゅっと、ねじり鉢巻を巻き、太鼓、つづみ、鐘を演奏する姿は、清楚でありながら、凛々しさも感じられ、憧れるものがあった。暗闇と提灯が描き出す黒と橙色のコントラストは幻想的であり、お囃子の音色と相俟って、優雅な雰囲気をだしていた。そのお囃子のテンポはゆったりと、ゆったりと、そして、少しもの悲しく響いた。山車も人の歩く早さで進む。そこはかとなく、品のよさが感じられ、日本古来の祭りを思い浮かべる。昔は牛が山車を引いていたそうだが、さすがに私は記憶にない。是非、再現してほしいものである。

平安時代、都で疫病がはやり、疫神送りの祭事を行ったのが、祇園祭のはじまりであるといわれる。国分の「おぎおんさあ」は、どういった由来で、いつごろから、行われるようになったのだろう。文献によると、国分の祇園社は、はじめは府中にあったが、時代とともに商業の中心が本町の方に移ったので、祇園社も移された。廃仏毀釈後は八坂神社と呼ばれるようになり、夏祭りの一つとして、「おぎおんさあ」を行っているとある。一説には、夏枯れの商売の景気づけに、商売繁盛を祈ったのがはじまりであるとも言われているそうだ。

祭りと観光・・・ 
洋の東西を問わず、商業化してしまった祭りにわびしさを感じることがある。土地の人の祭祀であったものが、現代では集客目的になってはいないだろうか。お祭りを目当てにツアーが組まれ、参加したものの、見物人でごった返すばかり。

自由な旅をしていると、ふと立ち寄った小さい村で偶然、お祭りに出くわすことがある。質素ながらも村人が祭りの準備にいそしむ光景に、心を奪われる。

霧島国分夏まつりも、年々大規模になり、盛り上がりをみせているようである。それはそれで、大いに結構。ただ・・・


私の子供のころの夏祭りは、小さな町の、この土地の人々のささやかな楽しみであった。自分や友だちが描いた手作りの灯篭を見つけては喜んでいた。そんなことがうれしかった。。。
祭りの帰り道、夜空には天の川がきれいに見えていたのを思い出す。

2013/05/27

風ノ杜 平安の恋物語

むかし、むかし、大隅国曽於郡国分郷に「こがの杜」というところがあったげな。

ここには、遠い昔の恋物語が語り継がれている。

この地に京の都からはるばる、愛する人を慕って一人の女房がやって来た。

女の名は伯耆局。恋人・藤原成経を追って、薩摩国鬼界ヶ島へ渡ろうと、船が出るのを幾日も待ち続けた。

しかし、願い叶わず、この地で命果てた。里の人は、哀れに思い、一本の木を植え、弔ったそうな。。。


平安末期、鹿ケ谷の変で捕らえられ、島流しになる俊寛らの話は、平家物語で有名である。それにまつわる話のようだ。「長門本平家物語」によると、鹿児島神宮の四社家の一つ桑幡家の清道という人物が、成経に会わせてやると言って騙し、伯耆局を都から連れて来たらしい。

一年後、成経と平康頼は赦免され、俊寛だけを残し、島から戻ってくる。晴れて再会でき、さぞ感動的な場面が語られると思いきや、伯耆局と成経は、歌合せをした後、あっさりと別れてしまうのだそうだ。

どうも、悲しい恋物語の伝承とは違うようだ。

現在、府中方面から松永用水路に沿って上流へと向かうと、田んぼの中に樟が一本立っている。『三国名勝図会』によると、ここが風ノ杜と呼ばれた場所らしい。当時は、この辺りから船が出ていたそうだ。

俊寛たちが、遠い都からここまで来て、さらに鬼界ヶ島まで流されていったことは、事実のようだ。私たちの故郷は、当時から、交通の要衝であったということは間違いない。


2013/02/15

大隅国分寺跡 石の記憶



奈良時代、大隅国分寺が置かれたこの平野に思いをはせてみる。
タイムトラベラーになったつもりで。


聖武天皇は、鎮護国家の思想のもと、諸国に国分寺と国分尼寺を造らせた。
天平13年(741年)の国分寺建立の詔である。
自然災害、疫病、争いで疲弊しきった世の中を、仏の力で変えようとしたのだ。

数年後、奈良の都、平城京では、国力を結集させ、巨大な盧舎那仏が完成。
大仏開眼の儀式が、華々しく行われようとしていた。
はるばる天竺から高僧が招かれ、国際色豊かな祭典であったそうだ。

一方、大隅国分寺は、全国にだいぶ遅れて完成したという。
隼人が朝廷に抵抗し続け、大きな犠牲を払ってから数十年が経っていた。
当時、建設に携わった人々や、その様子は、どのようであったのだろう。
また、完成した寺の様子は、どのようであったのだろう。
仏教文化はこの地にどのような影響を与えたのだろうか。
縄文の頃より祀り奉る土着神のように、すんなりと受け入れられたのだろうか。
夕焼けに鐘の音が響きわたる国分平野。
穏やかな情景を想い描いてみる。


夜中、試験勉強に身が入らず、ちょいと奈良時代へタイムスリップ・・・
数学よりずっと集中でき、脳みそは活性化され、ワクワクしたものだ。
修行に励む僧侶たち、野良仕事や漁労に精を出す里人たち・・・
千三百年ちかい時の流れを遡れば、確実にこの辺りに大隅国分寺は存在していた。
そう考えると、SF小説の主人公にでもなった気分だった。

とは言うものの、大隅国分寺の全体像(伽藍の配置など)は、未だに不明である。
周辺が住宅地になっているため、調査が進んでいないのが現状なのだそうだ。
(この点に関しては、少々複雑な思いが・・・)
現存するものは、平安末期に造られた六重の石塔(元々は七重であったらしい)と、
仁王像が2体のみ。

そんな貴重な文化財とはつゆ知らず、もの心ついた頃からここで遊んでいた。
ままごとにしても、鬼ごっこにしても、常に石に触れていた記憶がある。
なぜか頭のない石像が不思議でしょうがなかった。
「なんで、頭がないんだろう???」
そんな体験のおかげで、妄想力が鍛えられたのかもしれない。。。


全国に残る国分寺跡は長い歴史の中で、それぞれの末路をたどったようであるが、
大隅国分寺の運命は、どのようであったのか。

『三国名勝図絵』に、「・・・数百年星霜を経て、いづれの時にや荒廃に及べり・・・」と、次第に衰退していった記録が残されている。それでも、「・・・今や寺は主僧一口の草庵なりといえども、廻国修行納経所となりて、参詣の徒絶えず・・・」と伝えている。

また、「寺辺一町方許地中より、古瓦を掘出すことあり、其瓦厚きこと三寸に余り、或は布目、或は網形などあり」と、附近から奈良時代の瓦が出土したことも補足し、「当寺草創天平十一年己卯より今年天保十二年の丑に至り、一千百三年、実に千古巨刹の遺跡疑いを容るべきなし」と。
編纂者が歴史の重みを実感している様子がうかがえる。
江戸後期の薩摩藩士に共感!


明治の廃仏毀釈で廃寺となり、公民館が置かれた。
また、ここに墓地があったとも聞かされている。
現在は全ての建物が取り払われ、広い空間に
石塔と2体の仁王像がもの言わずたたずんでいる。
まるで次のステージを待っているかのようだ。


幼い頃、毎日のように遊んだ身近な場所が、貴重な文化財であり、
少なからず、影響を受け、育ったことに感謝したいと思う。

2012/12/01

台明寺と天智天皇

 国分小学校を城山の麓に沿って北へ進むと、宇都(うと)、清水(きよみず)と続き、運動公園、国分中学校が見えてくる。私はこの道を3年間通った。更に、北へ進むと、郡田(こおりだ)地区。郡田川を東に遡っていくと、次第に道幅は狭まり、台明寺(だいみょうじ)地区へとたどり着く。山之路(やまんじ)と呼ばれた集落は隠れ里といった形容がぴったりの雰囲気。現在は上流に公園ができ、夏は涼を求め訪れる人に利用されている。

台明寺の名は、かなり古い文献にも見られ、正式には「竹林山集衆院台明寺、国分弥勒院の末寺」で、時代毎に時の権力者の庇護を受け、明治廃仏毀釈まで存在していたのは確実であろう。

私が興味をそそられるのは、その伝承である。
「当寺の由緒按ずるに、天智天皇御勅願として創建、国家鎮護の道場とす」とある。

天智天皇が未だ皇太子の時代、この地方を訪れ、よい笛になる竹はないかと訪ねられた。そこでこの地に生育する竹を差出したところ、その音色にことのほか喜ばれ、それより後、朝廷に献上されるようになったと。

天智天皇といえば、645年、乙巳の変で、中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともにクーデーターを起こし、蘇我入鹿の首をはねた、中大兄皇子のことである。その後、鎌足とともに行った政治改革が大化の改新(歴史の勉強で、無事故の日なし大化の改新とか、蘇我のむしごろしなどと暗記したものだった)。母親の斉明天皇を補佐し、長らく皇太子のまま政治を続けた。

当時、東アジアは動乱の時代。中国大陸は隋から唐へ、その影響を受け、朝鮮半島では百済と新羅が争っていた。ヤマト朝廷は百済を救援すべく兵を送ることにした。その指揮にあたって斉明天皇一行は、奈良の飛鳥から筑紫の朝倉宮に一時滞在している。この東アジアの動乱に備え、防衛用に築いた水城の遺跡が残されており、史実を裏付けている。天智天皇(中大兄皇子)の九州行幸にまつわる、薩摩半島や大隈半島に残る伝承はこの時期のものであろうか。

結局、白村紅の戦いで、唐・新羅連合軍に惨敗を喫し、その後、中大兄皇子は飛鳥から近江に遷都し、そこで即位する。数年後、天智天皇が亡くなると、後継者の座をめぐり、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が争い、壬申の乱が起きる。大海人皇子が勝利、天武天皇として即位する。学校で教わる日本史はざっとこのような流れである。

だが、古代史マニアにとってはそれでは済まない。斉明(皇極)天皇、天智天皇、天武天皇にまつわる謎をあげれば、枚挙に暇がなく、興味が尽きないのである。特に天智天皇に関しては、南九州の神社に伝わる伝説が多い。当時の政治の中心から遠く離れたわが故郷のこの地に、数多くの伝説が存在するのは何故か。現在の我々が考える以上に、古の人々のネットワークは、発達していたのではないか。更に、中央から見ても、無視することのできない重要な土地であったのではないか・・・などと、妄想するのも楽しいものである。

天智天皇と台明寺の話がいつの頃から語り継がれていたのか、詳しい検証の余地はあるとしても、我が郷土に残る伝承は未知の可能性を持っているのではないだろうか。夢とロマンを求める古代史好きには、魅力的な土地である。


森閑とした山間のこの地、山之路は、長い歴史があるにもかかわらず、何も語らず、ひっそりと時が流れるのを見守ってきたかのようである。清らかな渓流がつくり出す自然環境と、台明寺の存在は貴重な郷土の財産である。しかし、かつての古刹、台明寺の面影はみあたらない。この伝承も消えてしまわないように、伝えていく価値があるのではないだろうか。



余談ではあるが、NHK大河ドラマの『平清盛』がクライマックスを迎えている。平安時代末期に至っても、台明寺の竹で作られた笛は青葉の笛と呼ばれ、宮廷で珍重され、平家の公達にも伝わったようである。ドラマのシーンで、平経盛(駿河太郎(鶴瓶さんの息子)さん)が、笛を吹くシーンがよく見られるが、あの笛が青葉の笛らしい。鳥羽上皇(三上博史さん)から、清盛らの父平忠盛(中井貴一さん)に賜ったもので、後に孫にあたる敦盛に譲られる。
若く美しい笛の名手でもあった平家の若武者、平敦盛の悲しい最期を、平家物語は語り継ぐ。源平合戦、一ノ谷の戦いのシーンを楽しみにしているのだが、取り上げられるかどうか。。。


2012/11/24

舞鶴城跡 小学校の講堂

わが母校国分小学校は、今から400年ほど前に島津義久が築いた城跡にある。
城の呼名は、国分城あるいは(浜之市の富隈城に対して)、国分新城という。
我々は舞鶴城と呼んで、慣れ親しんできた。

周囲の石垣と堀が歴史の重みを感じさせる、自慢の小学校だ。
小学校としては、150年近い歴史がある。

私の入学当時、まだ木造校舎も残っており、
おぼろげながら脳裏に浮ぶ昭和の風景は、郷愁を誘う。

西側の校門を入ると、すぐに大きな講堂があった。

映画のワンシーンにあるレトロな外観の和洋建築。
洋風の玄関ポーチが印象的な正面入口。

内部は、高い天井に、板張りの床が黒光りを帯び、
広く落ち着いた空間だった。

中に入ると一瞬、ヒンヤリとするものの、

大きな縦長の格子の窓から十分な光が差し込み、
床を照らす光景は幸せな気分になった。
壁には黒と赤の暗幕が設置され、

利用の目的に応じて張られる度に
その巨大さに圧倒されたものだった。
壇上にはグランドピアノが置いてあった。
非情に立派な講堂であったと思う。

入学式、卒業式、節目ごとに行われる学校行事以外にも、
たくさんの思い出がある。

小学校に上がる前、予防注射があった。
私は注射が大の苦手だった。
アルコール消毒の匂いは刺激的すぎた。
お医者さんと母が押さえつけるなか、
懇親の力を込めてすり抜け、泣きながら広い講堂を逃げ回った。
今でもよく覚えている。

選挙の時には、投票会場にもなった。
親について行き、選挙のことは未だわからなくても、
何か重要なことが行われているのだなと感じ取れた。
堂々とした風格の講堂と、投票時の厳粛な雰囲気が妙にマッチしていた。

当時、講堂は地域の公共施設として、様々な役割を果たしていた。
「講堂」という呼び方も、時代を象徴しているかのようだ。
現代、体育館はあっても、講堂のある学校は少ないのでは。



全国には、明治・大正・昭和初期の建築物が、
壊されることなく保存され、現役で活躍している例がたくさんある。
私が子供の頃までは、国分の町にも
歴史的価値のある貴重な建物が随分残っていたように思う。
あれが、今残っていれば、きっといい味を出していただろうに。。。
つい、懐古趣味が出てしまう。

確かに、修復維持には費用がかかる。しかし、
取り壊し以外の選択も検討できる余裕が欲しいものだ。
嘉例川駅の駅舎は、今も、立派に活躍している。


高度成長期、大量生産、経済発展と、
その恩恵を享受した子供時代であった。
新しい物や変化を好み、身近なものに価値を見出せないこともあった。
・・・時が過ぎ、時代は変わった。
今一度、考えてみたい。本当に大切なものは何なのかと。



2012/09/07

大隅国小河院 言葉の化石

言葉を覚え、会話ができるようになると、
迷子になった時のことを考え、親は子に、
住所が言えるようにと暗記させる。
私の子供の頃は、そうだった。

「かごしまけん こくぶし かみこがわ ****」
母親の前で直立し、暗唱させられる。
そんな記憶が、残っている。

この儀式をパスすると、少し、一人前になれたような気がした。
そして、次は、下の者の番。
弟がこの時期を迎え、何度も練習していたのを思い出す。
途中でつっかえてしまうのが、可愛くて、微笑ましかった。

ところで、この住所、暗記したものの、
はて、「なんで、かみおがわ…って言うのだろう?
上小川小学校は、家からは随分遠いのに。」
不思議に思っていた。

『角川日本地名大辞典』によると、
大隈国小河院に由来するらしく、
中世、鎌倉時代から見られるとある。
税所氏や正八幡宮の管理下にあったらしい。
日本史のキーワードの一つ、“荘園”制度の時代まで遡る。

近世、江戸~明治22年は、大隅国曽於郡国分郷上小川。
近代になると、国分村⇒国分町⇒国分市の大字として残った。
国分市上小川**と呼ばれる住所は、現在よりもっと広範囲を占めていた。

昭和40年代後半か50年代前半に、国分市の住所の表示変更があった。
実家の区域は、国分市中央*丁目… と改められた。
当時は、「なんと、都会的!」と思ったものだ。

そして21世紀、俗に言う「平成の大合併」で、霧島市国分中央*丁目… となった。
これから先、私が生きているうちに、また住所が変わることがあるのだろうか。。。

町の発展とともに行政区域の呼名が変わっていくのは、致し方ないこと。
しかし、慣れ親しんだ呼名が失われてしまうことがあってはならない。
まさか、「国分」の地名は無くなりはしないだろうが。。。 
その土地に伝わる「地名は生きた言葉の化石」という人もあるくらい
貴重な財産であるのだから。

記憶の片隅からも消え去ろうとしていた思い出がふと甦り、懐かしくも、
愛着があるものを失ったような気持ちになった。

幼い頃、苦労して覚えた住所は消えた。
でも、思い出は消えない。

追記
迷子のインコが警察に保護されたが、自ら(?)住所を伝え無事帰宅した。
そんなニュースがあった。

2012/08/30

早春の国分平野

故郷といって真っ先に思い浮かべるのは・・・。
やはり、城山からの眺望だろうか。

私が小学生のころは、城山へ登る道はまだ舗装などされておらず、
金剛寺から徐々に続く坂道は、子供の足で約1時間はかかった。

3年生の時の担任、H先生は若い女の先生で、
明るくて、歌の好きな先生だった。
そして、私たちをよく教室から連れ出してくれた。
授業で、何度も城山に登った。

春は、ポカポカ陽気の中、
温んだ水溜りに、蛙の卵や、お玉じゃくしを見つけた。
自然観察あり、歌ありの懐かしい課外授業。

頂上に着くと、ふぅーと一息つく。
しばらくして、麓に広がる景色に、わぁーと声をあげる。
南へ広がる国分平野と錦江湾。そして桜島。
その雄大なパノラマに子供ながらに感動したものだ。

特に春の景色は心躍るものがあった。
美しく並んだ田畑は、れんげ草の赤紫、菜の花の黄、若い麦の緑に染まり、
春の三色が織りなす格子模様のように映った。
(緑色は当時の国分の代名詞タバコの葉の色だったかもしれない。)
その先には早春の海がキラキラ輝いていた。
まるで、のどかな素朴画そのもので、
豊かな自然と、人々の営みが、一枚の絵に描かれたようだった。

あのころの城山は整備されていなくても、登って来た者を充分満足させてくれた。
現在は、車で一気に登ってしまう。桜の季節ともなれば大渋滞。

便利になったけど、少し淋しい気もする。
郷愁って、そんなものなのだろうか。。。

ここからの眺めは、悠久の歴史を感じさせる。
南九州を舞台に繰り広げられた私たち祖先の変遷。

大切にしたい故郷の景観の一つ。



2010/09/19

クスノキの思い出

私が子供の頃、小学校の広い校庭には大きなクスノキが何本も立っていた。
実家は小学校のすぐそばにあったから、
校庭はじぶんちの庭のようなもので、
小学校に上がる前から、この広い校庭の隅々でよく遊んだものだった。

最も記憶に残っているのは、中でも太く大きい一本の木のこと。
私は、その木に “ラクダちゃん” と名前をつけて呼んでいた。
石垣の横に立っていたので、子どもの体でも石づたいに登ることができた。
太い幹が二股に分かれていて、その上で休むのにちょうどいい具合だった。
跨ると、まるでラクダの背中にでも乗っているような気分だった。
(未だに本物の駱駝に乗ったことは無いが、子どもながらにそう想ったものだ。)

「ラクダちゃん、来たよ。」と話しかけて、太い幹に抱きつくのが挨拶だった。
幹の凹みに小さな宝物を隠したり、ときには友だちとおしゃべりに夢中になったり、
ひとり、空想にふけってみたり。木の上は格好の遊び場だった。

木は独特の香りを放っていたのを、今でもはっきり覚えている。
樹齢何年も経っているだろうその木に触れていると、その芳香の中でなぜか安心できた。
今思えば、木が生きていると実感した初めての体験であったかもしれない。


鹿児島の古い神社には、クスノキが必ずと言っていいほど生育している。
旺盛な成長力に加え、寿命も長いときているので巨木が多い。
昔から御神木として祀られ、現在では天然記念物に指定され、
守られているものも少なくない。
その太い幹からは大きい材木が得られ、耐湿性、耐久性に富んでいるため、
古くから船の材料とされてきたそうだ。

日当山の蛭子(ヒルコ)神社(奈気木の杜ともいう)にも大きなクスノキがある。
境内の一角には朽ちた根株が残されている。ここに伝わる話は少し悲しい。
イザナギとイザナミの間に生まれたヒルコは成長しても足が立たなかったため、
高天原から舟に乗せて流された。その舟が流れ着いた地であるという、古い古い伝説。
遠足で訪れ、先生がその伝承を語るのを聞きながら、妙に人間臭い神話の世界に、
子供心にもショックを受けたことを覚えている。

日本神話の世界に、“磐樟船(いわくすぶね)”という船が登場する。「クスノキで造った堅牢な船」という意味合いらしい。「日本書紀」では、この磐樟船にヒルコを乗せて流したと。一方、「古事記」では、その舟は、葦舟であったと。

はるか昔、蛭子神社の周辺は、今とは少し違った景色であっただろう。海はもっと近くまで迫っていたというから、葦などの水辺の植物が生茂る風景が浮かぶ。

葦の小舟、速く堅牢な磐樟船。この地を舞台に繰り広げられた歴史の変遷を感じる。
海と切り離して語ることのできない、私たちの祖先との深い関わりを想像して、興味が尽きない。

薩摩藩の時代になると、樟の木は藩の財政を助けた。この木から抽出され製造された樟脳(しょうのう)は藩の貴重な財源の一つとなった。

子供の頃、身近にあったクスノキ。

この年になって改めて、郷土に根付く貴重な資源と認識する。伝えていきたいことの一つかな。と思う今日この頃。

懐かしいクスノキの友達“ラクダちゃん”は、もう随分前に台風で倒れてしまい、
今はいない。。。

2010/09/18

故郷

ふるさとの風景。

時の彼方の記憶。

失わないうちに、残しておこう。。。