2015/07/11

芭蕉にも歩いてほしかった曾の細道


梅雨のさなか、五月雨のしとしと降る午前。
天降川の岸部。
その景色に誘われて、川岸を歩いてみる。
傘を弾く雨音の調べはテンポよく、
連られて足も弾む、雨の散歩道。

天降川は、水位増し、勢いよく流れていた。
湧水の国見岳から新川渓谷を走り下る水流と、
韓国岳南麓に発し流れ至る水流。
神聖なる山の水源から生まれた水は、
この松永の地で一つになり、錦江湾へと注ぐ。

遠くに霞む曾の山々が幾重にも重なり、山の端から霧が立ち上る。
雨の天降川の景観は、山水画の世界を見ているようだ。
神仙、精霊の存在さえ感じられても、不思議ではないほど。
曾の国の誇らしきかなこの眺め。

もし、松尾芭蕉がこの風景を目にしたならば、
どんな句を詠んでくれたのだろう・・・
ふと、そんなことを考えた。

奥の細道の旅を終え、芭蕉は京都や近江で閑居した後、江戸に帰る。
そして再び、次は九州への旅を志し、江戸を出立。元禄七年五月。
故郷の伊賀上野に戻り、奈良、大阪へと進んだが、4か月後、
志半ばで、病に倒れ、51歳で没す。十月十二日。
死を覚悟してもなお、旅の句を詠んでいる。

「 旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る 」

芭蕉の魂は、南九州のわが郷土を旅しているだろうか・・・

芭蕉にも歩いてほしかった「曾」の細道
「五月雨を集めて早し天・降・川」

パクリではなく、オマージュです。
きりしま想望

2014/09/21

島津義久と舞鶴城と詰めの城

島津家16代当主、義久(よしひさ)が、大隅國国分郷の地に城を築いたのが、
西暦1604年、今から410年前になる。

現在の国分の町の基礎を造ったといっても過言ではない人物、島津義久。
あるいは、島津氏700年の歴史を存続させる礎を築いた人物、島津義久。

戦国動乱の時代を駆け抜けた武将たちの中で、
この島津義久の名を、私は真っ先に挙げたいと思う。
理由は、もちろん、郷土に深く関わる人物ということもさることながら、
語り継がれている人物像に、更に魅力を感じるからである。
しかしながら、残念なことに、地元でも、存在感は今一つ薄いのが現実。

そこで、家臣思いであった島津義久(龍伯様)が偲ばれる逸話を一つ。

義久に仕えて、数々の武功をたてた山田利安が、
慶長14年(1609年)、61歳で、国分麓の地にて没した。
その棺が、向花の山崎墓地に葬られる際、
義久は、棺を城門まで召し寄せ、手厚く焼香し、
「利安、さらば。自分もやがておいつかむ。」と言って、
歌を手向けたとある。 (薩藩旧伝集)

現在残る、国分小学校から国分高校まで東西に延びる石垣のあたりで、
400年ほど前に、このような心温まる光景があったのかと想像するだけで、
わが故郷が、誇らしく思えてくるのである。


国分舞鶴城の石垣は、野面(のづら)積という石積みの技法が用いられているそうだ。
平成16年実施の発掘調査では、築城当時、石垣の高さは、少なくとも56メートルはあったことがわかっている。

島津義久が、富隈城からこの地に移城することを決めた最大の要因は、
舞鶴城の背後に、詰めの城、城山が控えていたことである。
地形を利用した、攻めにくく守りやすい城は、国府新城と呼ばれていた。

城山は隼人城、遡ること古代には、曾於石城(そおのいわき)と呼ばれ、
隼人が朝廷の軍勢と死闘を繰り広げた場所であったと伝えられている。


きりしま想望

2014/07/27

ネブイハナシ(眠り放し) 
七夕前夜(旧暦七月六日)の伝統行事

七夕祭りといえば、やはり、八月。
夏休みの楽しみの一つであった。

「七夕」と書いて、「たなばた」と読むのは、なぜ?
古い古い伝統行事の由来は、様々な文化・伝承が習合し、
継承され、今日に至っている。

私のふるさとにも、七夕にまつわる行事があった。
大正の頃まで、盛んに行われていたという、
「ネブイハナシ(眠り放し)」の行事は、非常に興味深いものがある。

旧国分市の資料によると、旧暦七月六日、七夕前夜、
広瀬地区では、14歳~20歳までの娘たちが、この日定められた宿に集合し、
白のジュバンに赤色の腰巻き姿になり、川の真水と海水が交じり合う河口で、
身を清め、濡れたままの姿で、夜中、地区の大通りを手をつなぎ、
「ネーブイハナショ、コンヤヒトヨハ、ユルシャンセ・・・」と歌いながら、地区を一周し、宿に戻ったそうだ。夜は、オトシェと呼ばれる、溶かした黒砂糖と小麦粉を練った小さな団子を入れた物を食べたり、コックリサン遊びをしたり、男女一対の着物を七夕紙で作ったりしながら、みんなで眠気を覚まし合い、一夜を過ごしたとある。

その夜は、娘たちであれば、どこの畑からでも無断で、野菜やスイカ、果物を取ってもよいと、言い伝えられていたそうだ。その云われは、お姫様が盗みを犯してしまい、罰を受けなければならないところを、お姫様を盗人にできないというので、一年に一晩だけは、盗みをしても許されるということにした為であると伝えられている。また、一説には、水神祭りの行事であり、白ジュバン、赤腰巻きは、海女の正装、手をつなぐ姿は龍を表現し、スイカや野菜は水神様への供物なので、どこからでも、取ってよいとされていた、という説もあるそうだ。海岸に近い地域で、盛んに行われていたが、姫城、重久、清水、国分地区でも広く行われていたとのこと。

なんとも、好奇心をそそられる話である。東北青森県の「ねぶた祭り・ねぷた祭り」も、眠気を覚ますための行事が由来と聞いたことがあるが、何か共通したものがあるやも知れない。

七夕紙で作った男女一対の着物は、細い竹に袖を通し、竹の両端に糸で、数個のほおずきや、トッサゴ(鳳仙花)の花をいっしょにさげて飾ったそうだ。とても風情を感じる。お盆にほおずきを飾る風習は、盆提灯に似た赤いほおずきを頼りに、祖先の霊が戻ってくるからとも言われている。

信州松本地方には、七夕人形と呼ばれる雛人形のようなものを飾る風習が、今でも残っているそうだが、これも、どこかでつながっているのだろうか。。。

「ネブイハナシ」は廃れて、現在では行われていないが、
七夕にまつわる行事として、貴重な伝統行事であると感じる。



きりしま想望

2014/03/25

山坂達者 天孫降臨の霧島登山

鹿児島県の教育方針に、「山坂達者」というものがある。
薩摩藩時代からの郷中(ごじゅ)教育のなごりで、
足腰を鍛え、文武両道に励むことを目的としたものである。

小学校、中学校、高等学校と、必ず一度は、
学校行事として、登山が組み込まれていた。
めざすのはもちろん、天孫降臨霧島の山々。

霧島登山は、城山に登るのとは、わけが違う。
郷土のすばらしい伝統「山坂達者」は、誇りに思う。ただ、
登山の印象は、登らされた感が強く、残念ながら、あまりいい思い出はない
だから、大人になって、わざわざ登ろうなんて思いもしなかった。

確かに、山の景色はすばらしいし、
山頂に到達した時の達成感は、感動に値する。
でも、どうしても積極的にはなれなかった。


最近、考えている。
思い切って、再びチャレンジしてみようか・・・
山坂達者ではなく、健康維持管理のために?
(そんな年になったのか・・・)

せっかく、こんなにすばらしい環境が身近にあるのだから。
おくばせながら、「山ガール」の流行にのってみようかな。
季節はやはり、ミヤマキリシマのころが、よさそうかな。。。

登山を楽しみたいなと、思う自分がいる。


あなたは、なぜ山に登るのですか?
登山の魅力は何ですか?


2014/03/01

シネマパラダイス 郷愁の映画館

カタカタカタ・・・と映写機の回る音。
映写室の小さな窓から放たれる光にのって、
銀幕に映し出される喜怒哀楽。
昔の映画館を回想する。


『ニューシネマパラダイス』 ・・・
戦後まもない、イタリアはシチリアの片田舎。
映画は村人にとって唯一の娯楽。
映画館の名は、「パラダイス座」。
胸を打つ切ないストーリーと、
やさしく包み込むような旋律。

世界中の観客が、トト少年と自分の体験を重ね、
郷愁にかられたことだろう。。。

昔、わたしのふるさとにも、映画館があった。
2階に畳の座敷席が設けられたレトロな造り。
昭和以前の雰囲気を残した古びた建物だったが、
国分のシネマパラダイスだった。

もちろん、子供は自由に鑑賞できたわけではない。
「パラダイス座」は、事前に司祭の検閲があった。
わたしたちにも規則があった。
学校が許可した映画しか観ることはできなかった。
それでも、蘇る思い出の数々。
夢、冒険、かなしみ、笑い、おどろき・・・
たくさんの感動を味わった。

永遠に心に残る名作に、人生を重ねてしまう。
それが映画・・・
昔、わたしの町にも映画館があった。。。



2014/02/21

鹿児島神宮初午祭 鈴かけ馬踊り

鹿児島神宮初午祭は、「鈴かけ馬踊り」とも呼ばれ、
南九州に春を告げる伝統行事として広く知られている。

初午祭は稲荷神社の祭礼として、全国各地で行われているが、
鉦や太鼓、三味線の音にあわせ、馬がステップを踏みながら
踊りを奉納するのは、珍しいそうだ。

人と馬の長い歴史の中から、生まれた伝統行事。
昔から、馬は人の生活に欠かせないものであり、
身近な存在であったことは想像に難くない。

推古天皇の「馬ならば、日向(ひむか)の駒・・・」という言葉にみられるように、
古代から、南九州(薩摩国も大隅国も日向国の一部であった)は、
良馬の産地として認識されていたようだ。

また、畿内隼人が隼人舞いの際に用いた隼人の盾には、
馬の髪を付けることが義務付けられていたという。
初午祭がふるさとに根ざしたのも、必然的であったのではないかと感じる。

馬が人に寄り添うように踊る姿は、微笑ましい。


2014/02/10

天御中主神社 清水城と「ホッシンサア」

霧島市国分清水・弟子丸(きよみず・でしまる)に鎮座する
天御中主神社(アメノミナカヌシジンジャ)は、
地元では、北辰さま(ホッシンサア)と呼ばれている。
北斗七星と北極星に由来する神社である。

この神社は、訪れた者をやさしく迎えてくれ、
ほっとさせてくれる、そんな雰囲気をもっている。

鹿児島県神社庁の由緒書きによると、(以下引用)
「六十六代一条天皇の御代、寛弘元年甲辰の創建である。清水城の南側に七ヶ所の突き出たところがあり、それが丁度北斗七星を象って見えることから北辰大明神と称され、国土の安泰と蒼生の景福を希求して崇め祀られた。鎌倉時代の初期、島津忠久公が薩隅日州の守護として下向の砌、家宰本田左衛門尉貞親が大隅国の守護代に任ぜられ清水に在城以来、清水一郷の鎮守として奉祀された。」とある。

大隅国清水城は、断崖絶壁にたつ中世の山城であった。
古代には熊襲・隼人も、ここを拠点に戦ったのではないかとも言われている。
現代では町のシンボルとなっている城山公園のちょうど北に位置する。
その城の南側の山脚に巌石の尖觜が7つ、北斗七星の形に出現したことから、
その先端の位置にあたるところに、神社がおかれ、北辰様として祀られたそうだ。
(小学校の理科の時間、北斗七星のα星とβ星を結んだ線を
α側に数倍進めた先に極星を見つけることができると学習した。)

古来、中国より、伝わった北辰信仰は、
天体の星座、北斗七星、北極星を信仰する思想であった。
天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)は、日本神話のトップに位置づけされる神様である。
(ギリシャ神話でいうと、ゼウス神のようなものだろうか。)
宇宙の中心である不動の北極星と、天の最高神が重なり、習合されたのだろうか。

妙見信仰ともいわれ、山岳信仰の修験者や、戦勝を願う戦国武将たちにも信仰された。
土地の人からは、北辰さま(ホッシンサア)を供養すれば、長寿富貴になると信じられ、
産土神として大切にされてきた神社である。

そんな神社にはとても興味深い話がある。
毎年3月1日、奉納される田の神舞は、五穀豊穣、長寿を祈る女性だけによる神舞で、非常に珍しいということである。
そして、本社の一角に計測不能な洞穴があり、そこから流れ出す清泉を使って、祭祀の調がなされた。また、その清泉は200m先の白砂からも湧き出し、この流れの現象は「塩井川」と呼ばれたそうである。(角川日本地名大辞典より)

現在、「塩井之水」という石碑が立てられた池で、蛍の育成が試みられ、環境保全向上活動の取り組がなされている。まちづくりのお手本のようで、羨ましい限りである。

余談ではあるが、島津貴久とザビエルの初会見は、
この国分清水城であったのではないかという説もある。

『ザビエルと島津貴久のはじめての会見地
   - 国分清水城説についての一考察 - 』
霧島郷土史研究会発行



2014/02/07

国分の初市 春を呼ぶ風物詩

毎年2月初旬、きりしま国分の旭通りでは、
恒例の春を呼ぶ「国分の初市」が行われる。
地元では昔から、木市(きいち)と呼ばれ、親しまれている。

国分の初市は、明治時代から続いているそうだ。
春を呼ぶ風物詩として、伝統ある催し物なのだ。

商業活動の原点ともいえる市(いち)は、
時代が移り変わっても、人々の心に活気をもたらす。
歩行者天国となった旭通りは、大勢の買い物客で賑わう。

木市といえば、赤いひなぎく(雛菊)の苗が思い出される。
当時(昭和47年頃)、アグネスチャンの「ひなげしの花」が流行っていた。
♪来る、来ない、帰らない、帰る・・・と、
花びら占いで、恋人の帰りを待ちわびる乙女の恋心を歌った歌だった。

露店に並んだ赤くて丸い可愛らしい花。
当時は誰もがこの花をイメージしていた。
だから、私も喜んで買って帰った。
実を言うと、「ひなぎく」と「ひなげし」の勘違い。
勘違いではあったけれど、
小さくて丸くて可愛らしい花に大満足。
さっそく、父親の園芸用の鉢を拝借し植え替えた。
毎日、愛でて、幸せな気分になっていたことを思い出す。

それにしても、なぜ、「ひなぎく」ではなく、「ひなげし」?
「ひなぎく」の方が、花びら占いにはもってこいだと思うのだけど。。。

懐かしい初市。もう何十年も行っていないが、
ガーデニングが盛んな昨今、
春の苗木や草花を買い求める人々で、
木市はますます賑わっているとのこと。

まちに春を呼ぶ、ふるさと国分の初市。
歴史ある伝統の風物詩は、商店街の方々の努力によって、
受け継がれていることを忘れてはならない。

まだまだ寒さは厳しいが、春よ来い!福よ来い!

2014/01/11

石體神社 ほんとの意味の倍返し

霧島市隼人町内(うち)という地名の一角に、
鹿児島神宮の元宮とされる石體神社がある。
神宮の広い敷地の東側奥の山裾、
大きな岩がごろごろとした場所に鎮座している。

石體神社は、安産祈願で有名な神社。
戌の日には、神主さんのご祈祷があり、
地元だけでなく、遠くからも参拝者があるという。

祈願後、境内の小石を一つ持って帰り、
無事に安産をおえたら、その石に、もう一つ石を添え、
二つにして返すのだそうだ。

感謝の意をこのように倍にして返す。
これがホントの「倍・返・し」。

石體神社の由来は古い。
山幸彦の妻豊玉姫が、息子ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)を出産する際に、非常に安産であったという日向神話に因んでいる。また、神功皇后(息長帯比売命)が、朝鮮半島へ赴く際、お腹の中に子供(応神天皇)がいたが、石を腹に巻きつけ戦い勝利したという話があり、岩田帯の由来になっているという。(これらは、記・紀によって語り継がれた話。)
さらに遡れば、この辺りは縄文の頃より、人々の生活の跡が見られる土地である。(神宮西参道口附近の宮坂貝塚が物語っている) 遥か昔、信仰の対象として祀られ、祭祀の場であったのが、石體神社の元来の姿ではないだろうか。


道案内▼
鹿児島神宮拝殿へ上がる階段の手前を右に折れると、用水路に沿って小道が延びている。先へ進んでいくと、隼人歴史民族資料館が見えてくる。さらに進むと、赤い橋が架かっていて、たもとに大きく「安産守護・石體神社」の看板が立っている。この用水路沿いの小道は、日当山の蛭子(ヒルコ)神社へと続いているのだが、春になると桜並木が美しい。


2014/01/07

七草祝い ありがたい記念写真

鹿児島では、一月七日は、七草祝いの日。
数えの七つになる子供の無病息災を願う
島津藩に伝わる伝統行事。
私の子供の頃は、非常に重要な日であった。

かすかな記憶をたどっていくと、
美容院へ行き、髪を結ってもらい、お化粧して、着付けがすむと、
写真館で記念写真、神社で祈願、公民館の庭で集合写真と忙しかった。

集合写真はいつ見てもいい。
一人ひとりを思い出す作業が好きだ。
ましてや、同級生となると妙に連帯感を感じ、なおさら。
もちろん、男の子も正装している。
晴の姿に、はにかみながらも、みんな凛として、緊張感さえ感じる。
(早生まれの子も一緒に写っていたような・・・)

アルバムをめくっていくと、断片的ながら記憶がよみがえってくる。
七草粥(鹿児島でズシ、雑炊のこと)をもらうために、
親戚、縁者の家を7ヵ所廻るのが慣わしなのだそうだが、そういえば、
父親に連れられて、本家の玄関に立ったような記憶もかすかに。。。
なんせ、もう半世紀近くも昔のことだ。

七草のために伸ばしていた髪は、その後ばっさりと切られてしまった。
おかっぱ頭に。

不思議なものだ。
一つ思い出すと、次から次へと思い出す。
まるで、マジシャンが引き出す旗のついた紐のように。

一人で撮影した記念写真は気に入っている。
我ながら可愛らしい。(成人式の写真よりいい。)
こっちの方がお見合い写真にならないかと思ったものだ。(苦笑)
節目、節目に親が残してくれた大切な記念写真。
ありがたい。。。

七草祝いは、島津藩特有のものであると、
知ったのは、つい最近のことである。
どうりで、七・五・三に馴染みがなかったわけである。

2013/12/26

上野原遺跡に立って…縄文の心再び

上野原遺跡 きりしま想望

上野原遺跡は、標高260メートルの台地にある。
ここに立って、東西南北、360度、ぐるっと見回せば、
霧島連山、国分平野、錦江湾、桜島、大隅半島の緑深き山々…

縄文の声が聞こえてきそうだ。

きりしま想望

ここは先史時代からの歴史の舞台。
ここに故郷の歴史がねむっていた。
ここで生活を営んだ人々がいた。

彼らはこの空と山と海を眺め、何を考えたのだろう。
月を崇めたのか。
太陽を崇拝したのか。
火の山に祈りを捧げたのか。

きりしま想望

ここは古(いにしえ)のステージ。
縄文の声が聞こえてきそうだ。

自然との共生。
縄文の心を再び。

南のまほろば きりしま 「大地の詩」


帰省中、図書館でこの本に出会った。
ページをめくっていくと、何かがこみあげてきて、ふるえた。
今でもよく覚えている。
静かな感動。

写真と詩で紹介される、ふるさとの風景。
こんなところが、霧島市にあったの?
ため息がでる。

国分黒石岳からの眺望がすばらしいページを開いた時だった。
その頃、父が突然、逝ってから数年たっていたが、
神主さんがあげた祝詞が、ふっと、よみがえり、シンクロした。
「魂は、国分平野の空をまっている・・・」


わたしたちを育んでくれたこの大地。
ふるさとへの誇りと愛着がわいてくる。
わたしもここへ戻ってきたいな。。。
こんな風にふるさとを感じさせてもらえるなんて、
ありがたい。

いつまでも語り継がれてほしい一冊。
写真・詩 赤塚恒久氏

歩きたくなる町 こくぶの商店街


懐かしい写真を見つけた。
昭和30年代、40年代頃の国分の商店街の写真。
あの頃に戻って、通りを歩いてみたい。

国分駅の駅前通りに続いて延びる、旭通り。
大隅国分寺跡からまっすぐ南に向かう通りが、中央通り。
八坂神社のある通りは、その名のとおり八坂通り。
そして、昔の市役所(現在山形屋)の前を走る新市街通り。

映画「3丁目の夕日」ではないけれど、
高度成長期、真っ只中の国分のまち並みは、
子供時代の思い出とともによみがえる。

買い物に行くことを、「まちに行く」と言っていた。
ここで肉を買って、あそこで果物を買って・・・
服の生地も、画用紙も、男の子ならプラモデルも・・・
まちを歩くことが、楽しみだった。

車社会の世の中、郊外型の大型ショッピングモールが人気のようである。
似たようなものばかりが建設され、そのうち飽きられるのではないか?

歩きたくなる町並み。
魅力的な町並みは、新しいばかりとは限らない。
歴史文化が感じられる町こそ、人をひきつける。

国分の通りを結ぶと、北斗七星のようなシルエットにも見える。
象徴的ではないか。。。                            

2013/12/25

NHKふるさとの歌まつり 初回生放送


昔、「NHKふるさとの歌まつり」という番組があった。
宮田輝さんの司会で、視聴者参加型の公開番組。
当時の国分市からも中継があった。
会場は、現在の国分高校の体育館。

ご近所総出で、観覧に行った。
会場が大勢の人でわいていたのを、かすかに覚えている。
蜻蛉の羽ほどの、うっすらとした記憶でしかないが。

ゲストはもちろん、郷土の大スター森進一さん。
(だったそうだ。残念ながら、私は覚えていない。)

196647日。
記念すべき第1回目の生放送だったというから驚きだ。

後にこの番組は、郷土芸能の保存や、
ふるさと再発見に貢献したと評価されている。



2013/12/22

マイティーチャー 昭和の学習機器


「マイティーチャー」と聞いて、昭和の「あれ」を思い出す方は、
きっと、同年代にちがいない。
四角い機器に、A4サイズほどの磁気シートをセットして使用する。
磁気シートの学習内容を再生し、一人で学習できることが売りだった。

お店で販売していたわけではない。
大手の出版社の営業マンが、訪問販売していた。
自宅の玄関で、熱心に説明していた。
当時、画期的な学習器だったらしく、お値段もそこそこしたらしい。

ウチの父は、不思議な人だった。
亭主関白で、気が短く、怖い存在。
甘えた記憶も、ほとんどない。
やさしいとは、到底、言えなかった。

だが、
機械類が好きだったのか、新し物好きだったのか、
そういったものは、躊躇なく購入する人だった。
今でも、母がその話をよくしている。
「勉強道具と、電化製品は、いっき、買っくいやったがなぁ・・・」と。

かくして、「マイティーチャー」は、文字通り、
私たち3人姉弟の先生となった。
(しばらくは、熱心に使った覚えがある。)

再生専用のシートの他に、録音用シートも付いていて、
実を言うと、こちらの方が興味津々だったのだ。
カセットテープの普及より、先だったのではないだろうか。
ものめずらしくて、みんなで取り囲んだ。

さっそく、弟に歌を歌わせ、声を録音した。
富士山の歌。
♪あたまを雲の上に出し 四方の山を み・ほ・ろして・・・
見下ろしてを、み・ほ・ろしてと、舌足らずで歌う幼い弟に、
「みほろして やろかい・・・ はぁはぁはぁ・・・」と、
低い声で、笑う父の声。

楽しくて、何べんも何べんも再生したから、よく覚えている。
そんな、ひとときもあったんだなぁ。

ありがとう。。。


2013/09/05

らいおん堂 昭和の駄菓子屋


昔、国分小学校の西側に「らいおん堂」という店があった。
老夫婦が営む昭和の懐かしい駄菓子屋兼雑貨屋。

文房具も取りそろえてあり、登校前にお世話になる児童も多かった。
私は母のお遣いで、豆腐を買いに行くことと、
専ら、自分たちのおやつを買うのに、利用していた。
いわゆる、買い食いである。お行儀悪いけど、そのころの楽しみの一つ。
当時のベスト3は、スズメのたまご、ベビーラーメン、チロルチョコ(3連の)
10円でおやつが買えた。

その駄菓子屋は、すでに、なくなっているが、
今でも気になっているのは、店の名前、
「らいおん堂」。看板があったわけでもなく、
ひら仮名なのかカタカナなのかもわからない。
ただ、みんながそう呼んでいた。

当時も同級生の間で結構、話題になった。
やんちゃな男の子が言った。
「店のおばちゃんが眼鏡を取ったら、ライオンに似ているからだよ」と。
まさか。

きっと、何らかの由来が秘められていたはず。




2013/08/30

うど婆ちゃんとちんか婆ちゃん

母がよく思い出話をする。
「おはんに、うど婆ちゃんが10円玉を握らせっせぇ、
黒砂糖をこけ行かせっおいやった」 と。
当の本人は、買いに行かされたという記憶がほとんどない。
ただ、うど婆ちゃんが黒砂糖を好きだったのは、覚えている。
冬の日、黒い着物をきて、縁側で日向ぼっこをしている丸い姿。

本家にうど婆ちゃんと、ちんか婆ちゃんがいた。

小さいころは、意味もわからず、そう呼んでいた。
いとこの姉ちゃんや兄ちゃんが、そう呼んでいたので、
同じように呼んでいただけだった。

うど婆ちゃんは、私が幼稚園に上がる前に亡くなった。
それからは、ちんか婆ちゃんしかいなかったから、
ちんか婆ちゃんって、「何でそう言うのかなぁ。」と思いつつも追求はしなかった。
その意味をちゃんと理解したのは、ずいぶん大きくなってからだった。

大きい婆ちゃんと、小さい婆ちゃん。
決して、体の大きさのことではない。

二人は嫁と姑の関係。
本家のおばちゃんや、うちの母はそのまた嫁。

うど婆ちゃんも、ちんか婆ちゃんも、
明治生まれの薩摩の女たち。。。

ちんか婆ちゃんは、高校生の時に亡くなった。
直接、話をすることはめったになかった。
昔のことを教えてもらうこともなかった。

「むかっのしは、ひでかったとぉ。」
昔の人は大変だったと、よく尊敬の念をこめて言われる。

薩摩の女たちの生活は、
今とはずいぶん違っていたのだろうなぁ。。。

2013/08/24

虹と国分平野

虹を見たとき、人はなぜか心が躍る。
なぜだろう。。。

虹は人工的につくり出すこともできる。
科学的な知識があれば、丸い虹だってつくることができるそうだ。
もともと、虹は円形なのだそうだ。

空中に残った水滴に、太陽の光が反射、屈折しておきる自然現象。
それが虹。でも、心が躍る。

わがふるさと、国分平野には、虹がよく出る。
雨上がり、虹を見るチャンスが多いのではないだろうか。

さえぎるものもなく、見えやすいという条件だけではなく、
何か、地形が関係しているのではないだろうか。
そう思うことがある。

国分小学校の校歌に、虹がでてくるのだ。

♪ 霧島北に 虹深く 南は燃える 桜島
仰いで励む 学舎に 
希望の 花を かざすのは
われらぞ 国分小学校

昔から、虹がよく出現していたのではないだろうか。
そう思える。(郷土史に記述はないものか。。。)

霧島連山を背景に、南に桜島を望む、国分平野。
昔に比べれば、田んぼが少なくなったが、
それでも、天降川の辺りに立てば、
360度見わたすことができる。
なんとすばらしい土地であることか。。。

虹の町。希望の町。わがふるさと。
ソシシノムナクニと呼ばれた土地は
稔り豊かな田園地帯へと変わった。
はるか昔から、我々の祖先が営み続けた理想郷。

この景観が壊されることがあってはならないと、切に願う。
どうぞ高層ビルが乱立するような、残念なことにならないように。。。















( 中学校、高校の校歌は、全く思い出せないのに、
不思議と、この校歌は、歌えてしまう。 )

2013/08/21

隼人(ハヤト)と呼ばれた人々

古代、南九州に、「ハヤト」と呼ばれた人々がいた。
「隼人」の文字は、文献に記述されている。
「熊襲(曾)」の記述と入れ替わるように、「隼人」が登場する。

大和朝廷が使った呼名ということになるが、熊襲は東北の蝦夷と同様、
まつろわぬ(従わない)者どもといった意味合いを含み、
まるで異民のようなあつかいを受けている。

熊襲と隼人との関係も
「ハヤト」と呼ばれる所以も、明確にはわかっていない。

彼らの行動が隼(はやぶさ)のように敏捷かつ、勇猛であったとか、
彼らの持つ呪術性が重要視されていたとか、
また、日本神話に登場する神の末裔であったりとか、
隼人(ハヤト)と呼ばれた人々は、朝廷から見て
大きな存在であったといっても過言ではないだろう。

そんな彼らが、活躍した場所が、我々のふるさと、
南九州の地であった。
深い森と川、豊穣の海、聖なる山々。
太古のころより、この地を営みの場としていた。
連綿と繰り返されてきた歴史の変遷を受けながらも、
現代に生きる我々の中に、そのDNAを繋いできただろう。

隼人(ハヤト)と呼ばれた人々に、
我々のアイデンティティを求めてみたくなる。
学問ではなく、浪漫チックに。。。

そして、貴方たちはどこから来たのかと問うてみたくなる。


2013/07/14

おぎおんさあ 国分の夏祭り

祇園祭といえば、京都の夏を盛り上げる祭りとして有名であるが、私の町にも、「おぎおんさあ」と呼ばれる夏祭りがあった(私たちはぎおんまつりと呼んでいた)。国分の八坂神社がある八坂通りを中心に、中央通り、旭通り、新市街通りに夜店がならび、山車が通りをねり歩く。夕暮れ後しだいに暗くなるにつれ、この日ばかりは、街が提灯の灯りと祭り客でにぎやかになっていく。その様子にわくわくしたものだった。

山車に乗る子は、毎年、中学1年生になる年齢の女の子から選ばれるのだそうだが、きれいにお化粧をしてもらい、まとめ髪にきゅっと、ねじり鉢巻を巻き、太鼓、つづみ、鐘を演奏する姿は、清楚でありながら、凛々しさも感じられ、憧れるものがあった。暗闇と提灯が描き出す黒と橙色のコントラストは幻想的であり、お囃子の音色と相俟って、優雅な雰囲気をだしていた。そのお囃子のテンポはゆったりと、ゆったりと、そして、少しもの悲しく響いた。山車も人の歩く早さで進む。そこはかとなく、品のよさが感じられ、日本古来の祭りを思い浮かべる。昔は牛が山車を引いていたそうだが、さすがに私は記憶にない。是非、再現してほしいものである。

平安時代、都で疫病がはやり、疫神送りの祭事を行ったのが、祇園祭のはじまりであるといわれる。国分の「おぎおんさあ」は、どういった由来で、いつごろから、行われるようになったのだろう。文献によると、国分の祇園社は、はじめは府中にあったが、時代とともに商業の中心が本町の方に移ったので、祇園社も移された。廃仏毀釈後は八坂神社と呼ばれるようになり、夏祭りの一つとして、「おぎおんさあ」を行っているとある。一説には、夏枯れの商売の景気づけに、商売繁盛を祈ったのがはじまりであるとも言われているそうだ。

祭りと観光・・・ 
洋の東西を問わず、商業化してしまった祭りにわびしさを感じることがある。土地の人の祭祀であったものが、現代では集客目的になってはいないだろうか。お祭りを目当てにツアーが組まれ、参加したものの、見物人でごった返すばかり

自由な旅をしていると、ふと立ち寄った小さい村で偶然、お祭りに出くわすことがある。質素ながらも村人が祭りの準備にいそしむ光景に、心を奪われる。

霧島国分夏まつりも、年々大規模になり、盛り上がりをみせているようである。それはそれで、大いに結構。ただ・・・


私の子供のころの夏祭りは、小さな町の、この土地の人々のささやかな楽しみであった。自分や友だちが描いた手作りの灯篭を見つけては喜んでいた。そんなことがうれしかった。。。
祭りの帰り道、夜空には天の川がきれいに見えていたのを思い出す。