2014/03/25

山坂達者 天孫降臨の霧島登山

鹿児島県の教育方針に、「山坂達者」というものがある。
薩摩藩時代からの郷中(ごじゅ)教育のなごりで、
足腰を鍛え、文武両道に励むことを目的としたものである。

小学校、中学校、高等学校と、必ず一度は、
学校行事として、登山が組み込まれていた。
めざすのはもちろん、天孫降臨霧島の山々。

霧島登山は、城山に登るのとは、わけが違う。
郷土のすばらしい伝統「山坂達者」は、誇りに思う。ただ、
登山の印象は、登らされた感が強く、残念ながら、あまりいい思い出はない
だから、大人になって、わざわざ登ろうなんて思いもしなかった。

確かに、山の景色はすばらしいし、
山頂に到達した時の達成感は、感動に値する。
でも、どうしても積極的にはなれなかった。


最近、考えている。
思い切って、再びチャレンジしてみようか・・・
山坂達者ではなく、健康維持管理のために?
(そんな年になったのか・・・)

せっかく、こんなにすばらしい環境が身近にあるのだから。
おくばせながら、「山ガール」の流行にのってみようかな。
季節はやはり、ミヤマキリシマのころが、よさそうかな。。。

登山を楽しみたいなと、思う自分がいる。


あなたは、なぜ山に登るのですか?
登山の魅力は何ですか?


2014/03/01

シネマパラダイス 郷愁の映画館

カタカタカタ・・・と映写機の回る音。
映写室の小さな窓から放たれる光にのって、
銀幕に映し出される喜怒哀楽。
昔の映画館を回想する。


『ニューシネマパラダイス』 ・・・
戦後まもない、イタリアはシチリアの片田舎。
映画は村人にとって唯一の娯楽。
映画館の名は、「パラダイス座」。
胸を打つ切ないストーリーと、
やさしく包み込むような旋律。

世界中の観客が、トト少年と自分の体験を重ね、
郷愁にかられたことだろう。。。

昔、わたしのふるさとにも、映画館があった。
2階に畳の座敷席が設けられたレトロな造り。
昭和以前の雰囲気を残した古びた建物だったが、
国分のシネマパラダイスだった。

もちろん、子供は自由に鑑賞できたわけではない。
「パラダイス座」は、事前に司祭の検閲があった。
わたしたちにも規則があった。
学校が許可した映画しか観ることはできなかった。
それでも、蘇る思い出の数々。
夢、冒険、かなしみ、笑い、おどろき・・・
たくさんの感動を味わった。

永遠に心に残る名作に、人生を重ねてしまう。
それが映画・・・
昔、わたしの町にも映画館があった。。。



2014/02/21

鹿児島神宮初午祭 鈴かけ馬踊り

鹿児島神宮初午祭は、「鈴かけ馬踊り」とも呼ばれ、
南九州に春を告げる伝統行事として広く知られている。

初午祭は稲荷神社の祭礼として、全国各地で行われているが、
鉦や太鼓、三味線の音にあわせ、馬がステップを踏みながら
踊りを奉納するのは、珍しいそうだ。

人と馬の長い歴史の中から、生まれた伝統行事。
昔から、馬は人の生活に欠かせないものであり、
身近な存在であったことは想像に難くない。

推古天皇の「馬ならば、日向(ひむか)の駒・・・」という言葉にみられるように、
古代から、南九州(薩摩国も大隅国も日向国の一部であった)は、
良馬の産地として認識されていたようだ。

また、畿内隼人が隼人舞いの際に用いた隼人の盾には、
馬の髪を付けることが義務付けられていたという。
初午祭がふるさとに根ざしたのも、必然的であったのではないかと感じる。

馬が人に寄り添うように踊る姿は、微笑ましい。


2014/02/10

天御中主神社 清水城と「ホッシンサア」

霧島市国分清水・弟子丸(きよみず・でしまる)に鎮座する
天御中主神社(アメノミナカヌシジンジャ)は、
地元では、北辰さま(ホッシンサア)と呼ばれている。
北斗七星と北極星に由来する神社である。

この神社は、訪れた者をやさしく迎えてくれ、
ほっとさせてくれる、そんな雰囲気をもっている。

鹿児島県神社庁の由緒書きによると、(以下引用)
「六十六代一条天皇の御代、寛弘元年甲辰の創建である。清水城の南側に七ヶ所の突き出たところがあり、それが丁度北斗七星を象って見えることから北辰大明神と称され、国土の安泰と蒼生の景福を希求して崇め祀られた。鎌倉時代の初期、島津忠久公が薩隅日州の守護として下向の砌、家宰本田左衛門尉貞親が大隅国の守護代に任ぜられ清水に在城以来、清水一郷の鎮守として奉祀された。」とある。

大隅国清水城は、断崖絶壁にたつ中世の山城であった。
古代には熊襲・隼人も、ここを拠点に戦ったのではないかとも言われている。
現代では町のシンボルとなっている城山公園のちょうど北に位置する。
その城の南側の山脚に巌石の尖觜が7つ、北斗七星の形に出現したことから、
その先端の位置にあたるところに、神社がおかれ、北辰様として祀られたそうだ。
(小学校の理科の時間、北斗七星のα星とβ星を結んだ線を
α側に数倍進めた先に極星を見つけることができると学習した。)

古来、中国より、伝わった北辰信仰は、
天体の星座、北斗七星、北極星を信仰する思想であった。
天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)は、日本神話のトップに位置づけされる神様である。
(ギリシャ神話でいうと、ゼウス神のようなものだろうか。)
宇宙の中心である不動の北極星と、天の最高神が重なり、習合されたのだろうか。

妙見信仰ともいわれ、山岳信仰の修験者や、戦勝を願う戦国武将たちにも信仰された。
土地の人からは、北辰さま(ホッシンサア)を供養すれば、長寿富貴になると信じられ、
産土神として大切にされてきた神社である。

そんな神社にはとても興味深い話がある。
毎年3月1日、奉納される田の神舞は、五穀豊穣、長寿を祈る女性だけによる神舞で、非常に珍しいということである。
そして、本社の一角に計測不能な洞穴があり、そこから流れ出す清泉を使って、祭祀の調がなされた。また、その清泉は200m先の白砂からも湧き出し、この流れの現象は「塩井川」と呼ばれたそうである。(角川日本地名大辞典より)

現在、「塩井之水」という石碑が立てられた池で、蛍の育成が試みられ、環境保全向上活動の取り組がなされている。まちづくりのお手本のようで、羨ましい限りである。

余談ではあるが、島津貴久とザビエルの初会見は、
この国分清水城であったのではないかという説もある。

『ザビエルと島津貴久のはじめての会見地
   - 国分清水城説についての一考察 - 』
霧島郷土史研究会発行



2014/02/07

国分の初市 春を呼ぶ風物詩

毎年2月初旬、きりしま国分の旭通りでは、
恒例の春を呼ぶ「国分の初市」が行われる。
地元では昔から、木市(きいち)と呼ばれ、親しまれている。

国分の初市は、明治時代から続いているそうだ。
春を呼ぶ風物詩として、伝統ある催し物なのだ。

商業活動の原点ともいえる市(いち)は、
時代が移り変わっても、人々の心に活気をもたらす。
歩行者天国となった旭通りは、大勢の買い物客で賑わう。

木市といえば、赤いひなぎく(雛菊)の苗が思い出される。
当時(昭和47年頃)、アグネスチャンの「ひなげしの花」が流行っていた。
♪来る、来ない、帰らない、帰る・・・と、
花びら占いで、恋人の帰りを待ちわびる乙女の恋心を歌った歌だった。

露店に並んだ赤くて丸い可愛らしい花。
当時は誰もがこの花をイメージしていた。
だから、私も喜んで買って帰った。
実を言うと、「ひなぎく」と「ひなげし」の勘違い。
勘違いではあったけれど、
小さくて丸くて可愛らしい花に大満足。
さっそく、父親の園芸用の鉢を拝借し植え替えた。
毎日、愛でて、幸せな気分になっていたことを思い出す。

それにしても、なぜ、「ひなぎく」ではなく、「ひなげし」?
「ひなぎく」の方が、花びら占いにはもってこいだと思うのだけど。。。

懐かしい初市。もう何十年も行っていないが、
ガーデニングが盛んな昨今、
春の苗木や草花を買い求める人々で、
木市はますます賑わっているとのこと。

まちに春を呼ぶ、ふるさと国分の初市。
歴史ある伝統の風物詩は、商店街の方々の努力によって、
受け継がれていることを忘れてはならない。

まだまだ寒さは厳しいが、春よ来い!福よ来い!

2014/01/11

石體神社 ほんとの意味の倍返し

霧島市隼人町内(うち)という地名の一角に、
鹿児島神宮の元宮とされる石體神社がある。
神宮の広い敷地の東側奥の山裾、
大きな岩がごろごろとした場所に鎮座している。

石體神社は、安産祈願で有名な神社。
戌の日には、神主さんのご祈祷があり、
地元だけでなく、遠くからも参拝者があるという。

祈願後、境内の小石を一つ持って帰り、
無事に安産をおえたら、その石に、もう一つ石を添え、
二つにして返すのだそうだ。

感謝の意をこのように倍にして返す。
これがホントの「倍・返・し」。

石體神社の由来は古い。
山幸彦の妻豊玉姫が、息子ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父)を出産する際に、非常に安産であったという日向神話に因んでいる。また、神功皇后(息長帯比売命)が、朝鮮半島へ赴く際、お腹の中に子供(応神天皇)がいたが、石を腹に巻きつけ戦い勝利したという話があり、岩田帯の由来になっているという。(これらは、記・紀によって語り継がれた話。)
さらに遡れば、この辺りは縄文の頃より、人々の生活の跡が見られる土地である。(神宮西参道口附近の宮坂貝塚が物語っている) 遥か昔、信仰の対象として祀られ、祭祀の場であったのが、石體神社の元来の姿ではないだろうか。


道案内▼
鹿児島神宮拝殿へ上がる階段の手前を右に折れると、用水路に沿って小道が延びている。先へ進んでいくと、隼人歴史民族資料館が見えてくる。さらに進むと、赤い橋が架かっていて、たもとに大きく「安産守護・石體神社」の看板が立っている。この用水路沿いの小道は、日当山の蛭子(ヒルコ)神社へと続いているのだが、春になると桜並木が美しい。


2014/01/07

七草祝い ありがたい記念写真

鹿児島では、一月七日は、七草祝いの日。
数えの七つになる子供の無病息災を願う
島津藩に伝わる伝統行事。
私の子供の頃は、非常に重要な日であった。

かすかな記憶をたどっていくと、
美容院へ行き、髪を結ってもらい、お化粧して、着付けがすむと、
写真館で記念写真、神社で祈願、公民館の庭で集合写真と忙しかった。

集合写真はいつ見てもいい。
一人ひとりを思い出す作業が好きだ。
ましてや、同級生となると妙に連帯感を感じ、なおさら。
もちろん、男の子も正装している。
晴の姿に、はにかみながらも、みんな凛として、緊張感さえ感じる。
(早生まれの子も一緒に写っていたような・・・)

アルバムをめくっていくと、断片的ながら記憶がよみがえってくる。
七草粥(鹿児島でズシ、雑炊のこと)をもらうために、
親戚、縁者の家を7ヵ所廻るのが慣わしなのだそうだが、そういえば、
父親に連れられて、本家の玄関に立ったような記憶もかすかに。。。
なんせ、もう半世紀近くも昔のことだ。

七草のために伸ばしていた髪は、その後ばっさりと切られてしまった。
おかっぱ頭に。

不思議なものだ。
一つ思い出すと、次から次へと思い出す。
まるで、マジシャンが引き出す旗のついた紐のように。

一人で撮影した記念写真は気に入っている。
我ながら可愛らしい。(成人式の写真よりいい。)
こっちの方がお見合い写真にならないかと思ったものだ。(苦笑)
節目、節目に親が残してくれた大切な記念写真。
ありがたい。。。

七草祝いは、島津藩特有のものであると、
知ったのは、つい最近のことである。
どうりで、七・五・三に馴染みがなかったわけである。

2013/12/26

上野原遺跡に立って…縄文の心再び

上野原遺跡 きりしま想望

上野原遺跡は、標高260メートルの台地にある。
ここに立って、東西南北、360度、ぐるっと見回せば、
霧島連山、国分平野、錦江湾、桜島、大隅半島の緑深き山々…

縄文の声が聞こえてきそうだ。

きりしま想望

ここは先史時代からの歴史の舞台。
ここに故郷の歴史がねむっていた。
ここで生活を営んだ人々がいた。

彼らはこの空と山と海を眺め、何を考えたのだろう。
月を崇めたのか。
太陽を崇拝したのか。
火の山に祈りを捧げたのか。

きりしま想望

ここは古(いにしえ)のステージ。
縄文の声が聞こえてきそうだ。

自然との共生。
縄文の心を再び。

南のまほろば きりしま 「大地の詩」


帰省中、図書館でこの本に出会った。
ページをめくっていくと、何かがこみあげてきて、ふるえた。
今でもよく覚えている。
静かな感動。

写真と詩で紹介される、ふるさとの風景。
こんなところが、霧島市にあったの?
ため息がでる。

国分黒石岳からの眺望がすばらしいページを開いた時だった。
その頃、父が突然、逝ってから数年たっていたが、
神主さんがあげた祝詞が、ふっと、よみがえり、シンクロした。
「魂は、国分平野の空をまっている・・・」


わたしたちを育んでくれたこの大地。
ふるさとへの誇りと愛着がわいてくる。
わたしもここへ戻ってきたいな。。。
こんな風にふるさとを感じさせてもらえるなんて、
ありがたい。

いつまでも語り継がれてほしい一冊。
写真・詩 赤塚恒久氏

歩きたくなる町 こくぶの商店街


懐かしい写真を見つけた。
昭和30年代、40年代頃の国分の商店街の写真。
あの頃に戻って、通りを歩いてみたい。

国分駅の駅前通りに続いて延びる、旭通り。
大隅国分寺跡からまっすぐ南に向かう通りが、中央通り。
八坂神社のある通りは、その名のとおり八坂通り。
そして、昔の市役所(現在山形屋)の前を走る新市街通り。

映画「3丁目の夕日」ではないけれど、
高度成長期、真っ只中の国分のまち並みは、
子供時代の思い出とともによみがえる。

買い物に行くことを、「まちに行く」と言っていた。
ここで肉を買って、あそこで果物を買って・・・
服の生地も、画用紙も、男の子ならプラモデルも・・・
まちを歩くことが、楽しみだった。

車社会の世の中、郊外型の大型ショッピングモールが人気のようである。
似たようなものばかりが建設され、そのうち飽きられるのではないか?

歩きたくなる町並み。
魅力的な町並みは、新しいばかりとは限らない。
歴史文化が感じられる町こそ、人をひきつける。

国分の通りを結ぶと、北斗七星のようなシルエットにも見える。
象徴的ではないか。。。                            

2013/12/25

NHKふるさとの歌まつり 初回生放送


昔、「NHKふるさとの歌まつり」という番組があった。
宮田輝さんの司会で、視聴者参加型の公開番組。
当時の国分市からも中継があった。
会場は、現在の国分高校の体育館。

ご近所総出で、観覧に行った。
会場が大勢の人でわいていたのを、かすかに覚えている。
蜻蛉の羽ほどの、うっすらとした記憶でしかないが。

ゲストはもちろん、郷土の大スター森進一さん。
(だったそうだ。残念ながら、私は覚えていない。)

196647日。
記念すべき第1回目の生放送だったというから驚きだ。

後にこの番組は、郷土芸能の保存や、
ふるさと再発見に貢献したと評価されている。



2013/12/22

マイティーチャー 昭和の学習機器


「マイティーチャー」と聞いて、昭和の「あれ」を思い出す方は、
きっと、同年代にちがいない。
四角い機器に、A4サイズほどの磁気シートをセットして使用する。
磁気シートの学習内容を再生し、一人で学習できることが売りだった。

お店で販売していたわけではない。
大手の出版社の営業マンが、訪問販売していた。
自宅の玄関で、熱心に説明していた。
当時、画期的な学習器だったらしく、お値段もそこそこしたらしい。

ウチの父は、不思議な人だった。
亭主関白で、気が短く、怖い存在。
甘えた記憶も、ほとんどない。
やさしいとは、到底、言えなかった。

だが、
機械類が好きだったのか、新し物好きだったのか、
そういったものは、躊躇なく購入する人だった。
今でも、母がその話をよくしている。
「勉強道具と、電化製品は、いっき、買っくいやったがなぁ・・・」と。

かくして、「マイティーチャー」は、文字通り、
私たち3人姉弟の先生となった。
(しばらくは、熱心に使った覚えがある。)

再生専用のシートの他に、録音用シートも付いていて、
実を言うと、こちらの方が興味津々だったのだ。
カセットテープの普及より、先だったのではないだろうか。
ものめずらしくて、みんなで取り囲んだ。

さっそく、弟に歌を歌わせ、声を録音した。
富士山の歌。
♪あたまを雲の上に出し 四方の山を み・ほ・ろして・・・
見下ろしてを、み・ほ・ろしてと、舌足らずで歌う幼い弟に、
「みほろして やろかい・・・ はぁはぁはぁ・・・」と、
低い声で、笑う父の声。

楽しくて、何べんも何べんも再生したから、よく覚えている。
そんな、ひとときもあったんだなぁ。

ありがとう。。。


2013/09/05

らいおん堂 昭和の駄菓子屋


昔、国分小学校の西側に「らいおん堂」という店があった。
老夫婦が営む昭和の懐かしい駄菓子屋兼雑貨屋。

文房具も取りそろえてあり、登校前にお世話になる児童も多かった。
私は母のお遣いで、豆腐を買いに行くことと、
専ら、自分たちのおやつを買うのに、利用していた。
いわゆる、買い食いである。お行儀悪いけど、そのころの楽しみの一つ。
当時のベスト3は、スズメのたまご、ベビーラーメン、チロルチョコ(3連の)
10円でおやつが買えた。

その駄菓子屋は、すでに、なくなっているが、
今でも気になっているのは、店の名前、
「らいおん堂」。看板があったわけでもなく、
ひら仮名なのかカタカナなのかもわからない。
ただ、みんながそう呼んでいた。

当時も同級生の間で結構、話題になった。
やんちゃな男の子が言った。
「店のおばちゃんが眼鏡を取ったら、ライオンに似ているからだよ」と。
まさか。

きっと、何らかの由来が秘められていたはず。




2013/08/30

うど婆ちゃんとちんか婆ちゃん

母がよく思い出話をする。
「おはんに、うど婆ちゃんが10円玉を握らせっせぇ、
黒砂糖をこけ行かせっおいやった」 と。
当の本人は、買いに行かされたという記憶がほとんどない。
ただ、うど婆ちゃんが黒砂糖を好きだったのは、覚えている。
冬の日、黒い着物をきて、縁側で日向ぼっこをしている丸い姿。

本家にうど婆ちゃんと、ちんか婆ちゃんがいた。

小さいころは、意味もわからず、そう呼んでいた。
いとこの姉ちゃんや兄ちゃんが、そう呼んでいたので、
同じように呼んでいただけだった。

うど婆ちゃんは、私が幼稚園に上がる前に亡くなった。
それからは、ちんか婆ちゃんしかいなかったから、
ちんか婆ちゃんって、「何でそう言うのかなぁ。」と思いつつも追求はしなかった。
その意味をちゃんと理解したのは、ずいぶん大きくなってからだった。

大きい婆ちゃんと、小さい婆ちゃん。
決して、体の大きさのことではない。

二人は嫁と姑の関係。
本家のおばちゃんや、うちの母はそのまた嫁。

うど婆ちゃんも、ちんか婆ちゃんも、
明治生まれの薩摩の女たち。。。

ちんか婆ちゃんは、高校生の時に亡くなった。
直接、話をすることはめったになかった。
昔のことを教えてもらうこともなかった。

「むかっのしは、ひでかったとぉ。」
昔の人は大変だったと、よく尊敬の念をこめて言われる。

薩摩の女たちの生活は、
今とはずいぶん違っていたのだろうなぁ。。。

2013/08/24

虹と国分平野

虹を見たとき、人はなぜか心が躍る。
なぜだろう。。。

虹は人工的につくり出すこともできる。
科学的な知識があれば、丸い虹だってつくることができるそうだ。
もともと、虹は円形なのだそうだ。

空中に残った水滴に、太陽の光が反射、屈折しておきる自然現象。
それが虹。でも、心が躍る。

わがふるさと、国分平野には、虹がよく出る。
雨上がり、虹を見るチャンスが多いのではないだろうか。

さえぎるものもなく、見えやすいという条件だけではなく、
何か、地形が関係しているのではないだろうか。
そう思うことがある。

国分小学校の校歌に、虹がでてくるのだ。

♪ 霧島北に 虹深く 南は燃える 桜島
仰いで励む 学舎に 
希望の 花を かざすのは
われらぞ 国分小学校

昔から、虹がよく出現していたのではないだろうか。
そう思える。(郷土史に記述はないものか。。。)

霧島連山を背景に、南に桜島を望む、国分平野。
昔に比べれば、田んぼが少なくなったが、
それでも、天降川の辺りに立てば、
360度見わたすことができる。
なんとすばらしい土地であることか。。。

虹の町。希望の町。わがふるさと。
ソシシノムナクニと呼ばれた土地は
稔り豊かな田園地帯へと変わった。
はるか昔から、我々の祖先が営み続けた理想郷。

この景観が壊されることがあってはならないと、切に願う。
どうぞ高層ビルが乱立するような、残念なことにならないように。。。















( 中学校、高校の校歌は、全く思い出せないのに、
不思議と、この校歌は、歌えてしまう。 )

2013/08/21

隼人(ハヤト)と呼ばれた人々

古代、南九州に、「ハヤト」と呼ばれた人々がいた。
「隼人」の文字は、文献に記述されている。
「熊襲(曾)」の記述と入れ替わるように、「隼人」が登場する。

大和朝廷が使った呼名ということになるが、熊襲は東北の蝦夷と同様、
まつろわぬ(従わない)者どもといった意味合いを含み、
まるで異民のようなあつかいを受けている。

熊襲と隼人との関係も
「ハヤト」と呼ばれる所以も、明確にはわかっていない。

彼らの行動が隼(はやぶさ)のように敏捷かつ、勇猛であったとか、
彼らの持つ呪術性が重要視されていたとか、
また、日本神話に登場する神の末裔であったりとか、
隼人(ハヤト)と呼ばれた人々は、朝廷から見て
大きな存在であったといっても過言ではないだろう。

そんな彼らが、活躍した場所が、我々のふるさと、
南九州の地であった。
深い森と川、豊穣の海、聖なる山々。
太古のころより、この地を営みの場としていた。
連綿と繰り返されてきた歴史の変遷を受けながらも、
現代に生きる我々の中に、そのDNAを繋いできただろう。

隼人(ハヤト)と呼ばれた人々に、
我々のアイデンティティを求めてみたくなる。
学問ではなく、浪漫チックに。。。

そして、貴方たちはどこから来たのかと問うてみたくなる。


2013/07/14

おぎおんさあ 国分の夏祭り

祇園祭といえば、京都の夏を盛り上げる祭りとして有名であるが、私の町にも、「おぎおんさあ」と呼ばれる夏祭りがあった(私たちはぎおんまつりと呼んでいた)。国分の八坂神社がある八坂通りを中心に、中央通り、旭通り、新市街通りに夜店がならび、山車が通りをねり歩く。夕暮れ後しだいに暗くなるにつれ、この日ばかりは、街が提灯の灯りと祭り客でにぎやかになっていく。その様子にわくわくしたものだった。

山車に乗る子は、毎年、中学1年生になる年齢の女の子から選ばれるのだそうだが、きれいにお化粧をしてもらい、まとめ髪にきゅっと、ねじり鉢巻を巻き、太鼓、つづみ、鐘を演奏する姿は、清楚でありながら、凛々しさも感じられ、憧れるものがあった。暗闇と提灯が描き出す黒と橙色のコントラストは幻想的であり、お囃子の音色と相俟って、優雅な雰囲気をだしていた。そのお囃子のテンポはゆったりと、ゆったりと、そして、少しもの悲しく響いた。山車も人の歩く早さで進む。そこはかとなく、品のよさが感じられ、日本古来の祭りを思い浮かべる。昔は牛が山車を引いていたそうだが、さすがに私は記憶にない。是非、再現してほしいものである。

平安時代、都で疫病がはやり、疫神送りの祭事を行ったのが、祇園祭のはじまりであるといわれる。国分の「おぎおんさあ」は、どういった由来で、いつごろから、行われるようになったのだろう。文献によると、国分の祇園社は、はじめは府中にあったが、時代とともに商業の中心が本町の方に移ったので、祇園社も移された。廃仏毀釈後は八坂神社と呼ばれるようになり、夏祭りの一つとして、「おぎおんさあ」を行っているとある。一説には、夏枯れの商売の景気づけに、商売繁盛を祈ったのがはじまりであるとも言われているそうだ。

祭りと観光・・・ 
洋の東西を問わず、商業化してしまった祭りにわびしさを感じることがある。土地の人の祭祀であったものが、現代では集客目的になってはいないだろうか。お祭りを目当てにツアーが組まれ、参加したものの、見物人でごった返すばかり

自由な旅をしていると、ふと立ち寄った小さい村で偶然、お祭りに出くわすことがある。質素ながらも村人が祭りの準備にいそしむ光景に、心を奪われる。

霧島国分夏まつりも、年々大規模になり、盛り上がりをみせているようである。それはそれで、大いに結構。ただ・・・


私の子供のころの夏祭りは、小さな町の、この土地の人々のささやかな楽しみであった。自分や友だちが描いた手作りの灯篭を見つけては喜んでいた。そんなことがうれしかった。。。
祭りの帰り道、夜空には天の川がきれいに見えていたのを思い出す。

2013/05/27

風ノ杜 平安の恋物語

むかし、むかし、大隅国曽於郡国分郷に「こがの杜」というところがあったげな。

ここには、遠い昔の恋物語が語り継がれている。

この地に京の都からはるばる、愛する人を慕って一人の女房がやって来た。

女の名は伯耆局。恋人・藤原成経を追って、薩摩国鬼界ヶ島へ渡ろうと、船が出るのを幾日も待ち続けた。

しかし、願い叶わず、この地で命果てた。里の人は、哀れに思い、一本の木を植え、弔ったそうな。。。


平安末期、鹿ケ谷の変で捕らえられ、島流しになる俊寛らの話は、平家物語で有名である。それにまつわる話のようだ。「長門本平家物語」によると、鹿児島神宮の四社家の一つ桑幡家の清道という人物が、成経に会わせてやると言って騙し、伯耆局を都から連れて来たらしい。

一年後、成経と平康頼は赦免され、俊寛だけを残し、島から戻ってくる。晴れて再会でき、さぞ感動的な場面が語られると思いきや、伯耆局と成経は、歌合せをした後、あっさりと別れてしまうのだそうだ。

どうも、悲しい恋物語の伝承とは違うようだ。

現在、府中方面から松永用水路に沿って上流へと向かうと、田んぼの中に樟が一本立っている。『三国名勝図会』によると、ここが風ノ杜と呼ばれた場所らしい。当時は、この辺りから船が出ていたそうだ。

俊寛たちが、遠い都からここまで来て、さらに鬼界ヶ島まで流されていったことは、事実のようだ。私たちの故郷は、当時から、交通の要衝であったということは間違いない。


2013/02/15

大隅国分寺跡 石の記憶



奈良時代、大隅国分寺が置かれたこの平野に思いをはせてみる。
タイムトラベラーになったつもりで。


聖武天皇は、鎮護国家の思想のもと、諸国に国分寺と国分尼寺を造らせた。
天平13年(741年)の国分寺建立の詔である。
自然災害、疫病、争いで疲弊しきった世の中を、仏の力で変えようとしたのだ。

数年後、奈良の都、平城京では、国力を結集させ、巨大な盧舎那仏が完成。
大仏開眼の儀式が、華々しく行われようとしていた。
はるばる天竺から高僧が招かれ、国際色豊かな祭典であったそうだ。

一方、大隅国分寺は、全国にだいぶ遅れて完成したという。
隼人が朝廷に抵抗し続け、大きな犠牲を払ってから数十年が経っていた。
当時、建設に携わった人々や、その様子は、どのようであったのだろう。
また、完成した寺の様子は、どのようであったのだろう。
仏教文化はこの地にどのような影響を与えたのだろうか。
縄文の頃より祀り奉る土着神のように、すんなりと受け入れられたのだろうか。
夕焼けに鐘の音が響きわたる国分平野。
穏やかな情景を想い描いてみる。


夜中、試験勉強に身が入らずちょいと奈良時代へタイムスリップ・・・
数学よりずっと集中でき、脳みそは活性化され、ワクワクしたものだ。
修行に励む僧侶たち、野良仕事や漁労に精を出す里人たち・・・
千三百年ちかい時の流れを遡れば、確実にこの辺りに大隅国分寺は存在していた。
そう考えると、SF小説の主人公にでもなった気分だった。

とは言うものの、大隅国分寺の全体像(伽藍の配置など)は、未だに不明である。
周辺が住宅地になっているため、調査が進んでいないのが現状なのだそうだ。
(この点に関しては、少々複雑な思いが・・・)
現存するものは、平安末期に造られた六重の石塔(元々は七重であったらしい)と、
仁王像が2体のみ。

そんな貴重な文化財とはつゆ知らず、もの心ついた頃からここで遊んでいた。
ままごとにしても、鬼ごっこにしても、常に石に触れていた記憶がある。
なぜか頭のない石像が不思議でしょうがなかった。
「なんで、頭がないんだろう???」
そんな体験のおかげで、妄想力が鍛えられたのかもしれない。。。


全国に残る国分寺跡は長い歴史の中で、それぞれの末路をたどったようであるが、
大隅国分寺の運命は、どのようであったのか。

『三国名勝図絵』に、「・・・数百年星霜を経て、いづれの時にや荒廃に及べり・・・」と、次第に衰退していった記録が残されている。それでも、「・・・今や寺は主僧一口の草庵なりといえども、廻国修行納経所となりて、参詣の徒絶えず・・・」と伝えている。

また、「寺辺一町方許地中より、古瓦を掘出すことあり、其瓦厚きこと三寸に余り、或は布目、或は網形などあり」と、附近から奈良時代の瓦が出土したことも補足し、「当寺草創天平十一年己卯より今年天保十二年の丑に至り、一千百三年、実に千古巨刹の遺跡疑いを容るべきなし」と。
編纂者が歴史の重みを実感している様子がうかがえる。
江戸後期の薩摩藩士に共感!


明治の廃仏毀釈で廃寺となり、公民館が置かれた。
また、ここに墓地があったとも聞かされている。
現在は全ての建物が取り払われ、広い空間に
石塔と2体の仁王像がもの言わずたたずんでいる。
まるで次のステージを待っているかのようだ。


幼い頃、毎日のように遊んだ身近な場所が、貴重な文化財であり、
少なからず、影響を受け、育ったことに感謝したいと思う。

2012/12/01

台明寺と天智天皇

 国分小学校を城山の麓に沿って北へ進むと、宇都(うと)、清水(きよみず)と続き、運動公園、国分中学校が見えてくる。私はこの道を3年間通った。更に、北へ進むと、郡田(こおりだ)地区。郡田川を東に遡っていくと、次第に道幅は狭まり、台明寺(だいみょうじ)地区へとたどり着く。山之路(やまんじ)と呼ばれた集落は隠れ里といった形容がぴったりの雰囲気。現在は上流に公園ができ、夏は涼を求め訪れる人に利用されている。

台明寺の名は、かなり古い文献にも見られ、正式には「竹林山集衆院台明寺、国分弥勒院の末寺」で、時代毎に時の権力者の庇護を受け、明治廃仏毀釈まで存在していたのは確実であろう。

私が興味をそそられるのは、その伝承である。
「当寺の由緒按ずるに、天智天皇御勅願として創建、国家鎮護の道場とす」とある。

天智天皇が未だ皇太子の時代、この地方を訪れ、よい笛になる竹はないかと訪ねられた。そこでこの地に生育する竹を差出したところ、その音色にことのほか喜ばれ、それより後、朝廷に献上されるようになったと。

天智天皇といえば、645年、乙巳の変で、中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともにクーデーターを起こし、蘇我入鹿の首をはねた、中大兄皇子のことである。その後、鎌足とともに行った政治改革が大化の改新(歴史の勉強で、無事故の日なし大化の改新とか、蘇我のむしごろしなどと暗記したものだった)。母親の斉明天皇を補佐し、長らく皇太子のまま政治を続けた。

当時、東アジアは動乱の時代。中国大陸は隋から唐へ、その影響を受け、朝鮮半島では百済と新羅が争っていた。ヤマト朝廷は百済を救援すべく兵を送ることにした。その指揮にあたって斉明天皇一行は、奈良の飛鳥から筑紫の朝倉宮に一時滞在している。この東アジアの動乱に備え、防衛用に築いた水城の遺跡が残されており、史実を裏付けている。天智天皇(中大兄皇子)の九州行幸にまつわる、薩摩半島や大隈半島に残る伝承はこの時期のものであろうか。

結局、白村紅の戦いで、唐・新羅連合軍に惨敗を喫し、その後、中大兄皇子は飛鳥から近江に遷都し、そこで即位する。数年後、天智天皇が亡くなると、後継者の座をめぐり、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が争い、壬申の乱が起きる。大海人皇子が勝利、天武天皇として即位する。学校で教わる日本史はざっとこのような流れである。

だが、古代史マニアにとってはそれでは済まない。斉明(皇極)天皇、天智天皇、天武天皇にまつわる謎をあげれば、枚挙に暇がなく、興味が尽きないのである。特に天智天皇に関しては、南九州の神社に伝わる伝説が多い。当時の政治の中心から遠く離れたわが故郷のこの地に、数多くの伝説が存在するのは何故か。現在の我々が考える以上に、古の人々のネットワークは、発達していたのではないか。更に、中央から見ても、無視することのできない重要な土地であったのではないか・・・などと、妄想するのも楽しいものである。

天智天皇と台明寺の話がいつの頃から語り継がれていたのか、詳しい検証の余地はあるとしても、我が郷土に残る伝承は未知の可能性を持っているのではないだろうか。夢とロマンを求める古代史好きには、魅力的な土地である。


森閑とした山間のこの地、山之路は、長い歴史があるにもかかわらず、何も語らず、ひっそりと時が流れるのを見守ってきたかのようである。清らかな渓流がつくり出す自然環境と、台明寺の存在は貴重な郷土の財産である。しかし、かつての古刹、台明寺の面影はみあたらない。この伝承も消えてしまわないように、伝えていく価値があるのではないだろうか。



余談ではあるが、NHK大河ドラマの『平清盛』がクライマックスを迎えている。平安時代末期に至っても、台明寺の竹で作られた笛は青葉の笛と呼ばれ、宮廷で珍重され、平家の公達にも伝わったようである。ドラマのシーンで、平経盛(駿河太郎(鶴瓶さんの息子)さん)が、笛を吹くシーンがよく見られるが、あの笛が青葉の笛らしい。鳥羽上皇(三上博史さん)から、清盛らの父平忠盛(中井貴一さん)に賜ったもので、後に孫にあたる敦盛に譲られる。
若く美しい笛の名手でもあった平家の若武者、平敦盛の悲しい最期を、平家物語は語り継ぐ。源平合戦、一ノ谷の戦いのシーンを楽しみにしているのだが、取り上げられるかどうか。。。